金銅壷鐙
     福島県宮地嶽古墳出土
  鐙とは馬に乗る足掛けの道具。馬の扱いがたくみな遊牧民ならいざ知らず。足全体を覆う壷鐙には装飾を加えたものが少なくない。これもその一つで、鞍から下げられた革の先に結合する棒と足を納める壷の部分に、植物の葉のような文様(パルメツト)が表されている。
 パルメツトとは、先端が扇形に広がった葉の図案で、シュロともスイカズラとも言われている。連想されるのは、ギリシャ・ローマ風建築の上部の飾りで、欧風建築が一世を風靡した日本の明治時代にも少なからず見られる。西洋への憧れとエキゾチシズム。宮路嶽古墳の主もそうだつたのだろうか。
 宮地嶽古墳は7世紀前半に宗像(胸形)氏が築いたとされている。宗像氏は玄界灘を超える航海術にたけた海の民とされ、世界遺産登録に向けた動きが注目される沖ノ島も深い関係がある。沖ノ島には中国・韓国から渡ってきたさまざまな宝物も捧げられており、特に出来の良かったこの鐙を、死出の旅路の道具として同伴させたかつた彼の
気持ちも分からないでもない。しかしこのパルメツトはつつましやかだ。騎馬した古墳の主を見てもほとんど気付かれまい。わび寂びにも似た日本人の心性を見いだそうとするのはうがちすぎだろうか。
 宮地嶽古墳が築かれた頃、中国は唐の最盛期、西のササン朝ペルシャは没落の途上にあつた。二つの帝国が興亡するユーラシァ情勢は、遠く極東の地にも伝わったのだろうか。そのような中。パルメツトの壷鐙を選んだ宮路嶽古墳の主は、世界情勢にも明るかったに相違ない。
 しかし彼の死後、ほどなく日本は勝つ見込みのない戦争へと突入する。663年に唐・新羅の連合軍に大敗した白村江の戦いである。私たちの博物館の立地する大宰府も、その危機に対応して設けられたものだが、もし彼が生きていたら何と思うだろうか。平和へ懸念が高まる今だからこそ、歴史から学ぶことは少なくない。
    (研究員・河野一隆)