雪舟等楊筆 1495(明応4)年
破墨山水画
 ぼんやりした風景が下段に描かれ、中段にはそれを描いた雪舟等楊が経緯を自ら文章(自序)に書き記し、上段には当時の著名な禅僧6名が詩を書いている。雪舟(1420~1506?)は室町時代の禅僧画家で、とくにその水墨山水画は堅固な構築的構図を特徴とし、力強い筆致ともに高い評価を受けてきた。
 中段の自序によると、鎌倉の円覚寺の禅僧画家宗淵は、雪舟のもとで絵を学び、修行を終えるにあたり、師の画法を正しく受け継いだ証しとしての絵を雪舟に求めたという。雪舟は数日にわたり宗淵から催促され、玉澗スタイルの山水画を描いた。玉淵は中国(13世紀)の僧
侶で、その絵は日本で唐物として尊重された。玉淵の画法は墨汁をはね散らすような粗放なもので、雪舟もこの作品ではそのスタイルにならつて荒々しいタツチで描いている
 自序が書かれたのは1495年3月で、その頃雪舟は山口に住んでいたとみられる。宗淵は雪舟のもとを去り、京都で月翁周鏡ら、詩名の高い禅僧に、絵にちなんだ詩を書いてもらった。そもそも禅宗においては仏法を継承した証しとして師から弟子に卦さ印可状、頂相(肖像画)が付与されるが、それらと同様の役割を果たすものとして師の雪舟から本図を得た宗淵は、さらに京都で名僧たちからお墨付きを得たわけである。
 雪舟は自序の中で、かつて中国の都で長有声と李在に入門し、「設色の旨」(色彩のポイント)と「破墨の法」(水墨画の技法)を習得したことを記し、さらに如拙と周文を「吾が祖」とよんでその製作態度を称賛している。中世まで画家自身のことばで、自らの画法の系譜を書き記した実物資料はほとんどなく、歴史上たいへん重要な資料といえる。なお自序の中に「破墨」のことばが出てんるため、この作品は古来、破墨山水と呼ばれてきた。
                  (登録室長・救仁郷秀明)