布製の棺から古代の若者
 日露戦争が勃発した1904年に、在京の英国公使館員の仲介で、エジプト考古庁から寄贈された。表面が真っ黒でお世辞にも美しいのもではないが、修学旅行の中高生の間では、「東洋館」随一の人気者だという。
 ミイラ本体が入っているのは亜麻布を張り合わせた人形の「カルトナージュ棺」で現在では「身」=写真下=と「ふた」=同上=に分かれているが、到着時はカイコの繭のように一体で内部は見えていなかった。中身が見たい明治の学者たちが「本館ニテ切開」と勇断した。
 棺表面全体に彩色した図像が描かれ、銘文も記されていたのだが、何の目的か、その上に黒い液体が大量に「ぶっかけ」られ、このような状態になつてしまっている。到着時以来、死者の名は「アンクマウトの子ブシャクブタ」とされていたが、どうして分かったのだろう。
 94年に赤外線写真による調査が行われ、死者の神々の図像、聖刻文 エジプト・テーベ出土

パシェリエンプタハのミイラ
 字による銘文などが浮かび上がった。鈴木まどか興趣(倉敷芸術科学大)による銘文の釈文は以下の通り。「ケンティイメンティュウ、アビュドスの主人(である)オシリス神に王が与える供物と食料とを故アンクムウトの息子、オシリス(になった者)、パシェリエンプタハに与えるために」。
 要は来世の死者が食物に不自由しないようにとの、お決まりの祈願文である。古代エジプトでは、死者はみな仏ならぬオシリス神になつた。90年間伝承されてきた死者の名は、基本的に正しかった。意味は「プタハ神の息子」だが、実の親は「生けるムウト女神」を意味するアンクムウト。官職名などが記されていないのは、死者が就職前の若者だったからだろう。
   (特任研究員・差等 健)