No1 No2 No3  No4 大城立裕・杉村隆・李健熙 矢口高尾・岡田裕介・熊本典道 一龍齋貞水・出口典雄・西川右近
 ふるさとの自然にこだわり、人々の暮らしにこだわった。こまやかな情景描写と物語を展開する構成力、山のにおい、川のにおいが伝わてきた。
 奥羽山脈のふもとに広がる秋田県西成瀬村(現横手市)に生まれた。4歳のとき、宮尾しげをさんの漫画「西遊記」を読み、孫悟空など登場人物の顔をまねて描くようになる。
 やがて戦後。手塚治虫さんの漫画に夢中になった。高校卒業後は東京・浅草のブラシ工場に集団就職が内定していたが、「親に恩返しするのは当たり前」と地元の銀行に就職した。
 転機は30歳のころ。赴任した支店の前の本屋に「月刊漫画ガロ」が並んでいた。その中に出ていた白土三平さんの「カムイ伝」に感動。漫画家になりたいという思いが再び膨らむ。銀行をやめて上京
 
 「魚を釣ってはデッサンの日々。活魚料理の店に入っても水槽の魚を描いていました」=2009年
、漫画家としては遅いデビューである。右手一本で妻子を養っていかなければいけない不安。自分に何が描けるのか模索する日々が続いた。
 1972年、「オリジナルの原作で勝負したい」と、ふるさと秋田の狩猟民マタギをテーマにした「マタギ列伝」を生ねんミック誌に連載した。「描くたびに新鮮で、考え
得る限りの試みを惜しげもなく傾注することとなった」と言っていた。
 作品に登場するマタギ「辰五郎」の孫でシカリ(頭領)を務める鈴木英雄さん(78)は「マタギの歴史や風習を調べ尽くしていた。だからこそ細かな情景描写ができのだろう」と語る。
 翌年、「週刊少年マガジン
」で始めたのが代表作「釣りキチ三平」だ。麦わら帽子にわら草履姿で釣りに熱中する三平少年の登場である。
 公害が社会問題化し、高度成長のひずみが語られたころだ。「このまま行ったら人間の住めない国になる」と訴えていた。ツチノコブームを巻き
 















矢口高雄さん


 
漫画家
 







三平に込めた 自然への畏れ
  
 起こした「幻の怪蛇バチヘビ」も、自然破壊が進んしまつた現代社会への警鐘の想いがあった。
 「誠実な人だつた。知らないことを知ったかぶりして描くことはできない、と徹底して現地で取材し、事実に迫った」。編集者時代に幾つかの作品を手がけた元中央公論社社長の嶋中行雄さん(74)は語る。
 次女かおるさんがツイッターで発表したところによると、5月に膵臓がんが見つかり、闘病生活を続けていた。自然への畏れと敬意を忘れなかった。コロナ過の今、矢口さんが残した作品から学ぶべきものは多い。
  (編集委員・小泉信一)
 11月20日死去  (膵臓がん)   本名・高橋高雄 81歳
 東映本社を訪れた脚本家の早坂暁さん(右)と岡田裕介さん=2003年ごろ、東映提供  東映グループ会長 岡田裕介さん
 長く東映を率い、日本映画製作者連盟やアカデミー賞協会の会長職を歴任した。東映調に言えば「映画界の首領」」だ。
 しかし、会ってみると、気さくでサービス精神旺盛。記者会見でも「東宝の映画が当たったおかげで、東映の劇場も助かっている」と平気で言う。私はその人柄が好きで、会長室に押しかけては話を聞かせてもらった。
 東映の岡田茂元社長の長男。だが、慶大時代は映画界に進む気はなかった。テレビがだい台頭してきた1960年代末。「おやじがさあ、外では勇ましかったけど、家では『映画は終わりだぞ』と言うんだよな」ところが東京・新宿を歩いていて俳優としてスカウト
気さくな「首領」元二枚目俳優
 される。70年の主演映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」がヒット。「映画館の前に行列ができていた。涙が出てきてね。その後、当たった映画は一本もなかった」
 二枚目だが線の細い男を得意とした。忘れ難いのは「夢千代日記」。吉永小百合さん演じる夢千代の元恋人役だつた。実家の旅館を高層ホテルにしようとして母親ら一喝される。「僕が吉永さんを紹介したから脚本の早坂暁さんが『お礼に役を作ってあげたよ』と言うんだよ。出演してみたら、ひどい役。『お礼でしょ?おかしいじゃない』と言ったんだけどねえ」
 「玄海つれづれ節」でも、妻の吉永さんを捨てて逃げた社長を演じた。「社員に頼られるのは勘弁してほしい」というセリフは、後に経営者になることを考えると感慨深い。「実は僕が脚本を書いたんだ。まさか自分で演じることになるとは」
 88年に東映入社後は吉永さんの主演映画を数多く制作した。最新作「いのちの停留場」の完成を見ることなく突然帰らぬ人になつた。「吉永さんに会うと今でもドキドキするんだよ」。そう言ったときのはにかんだ笑顔をずっと忘れないでいようと思う。
    (編集委員・石飛徳樹)

 
 11月18日死去 (急性大動脈解離) 本名・岡田剛 71歳
 袴田巌さんの再審判請求を支援した元裁判官 熊本典道さん 
  「死刑判決は裁判官の全員一致であるべきだと思う」と話していた熊本典道さん=2018年11月11日死去 
 「お椀の船に箸の櫂、法曹界に乗り出した。彼等は未だに一寸法師」
 茶色く変色したわら半紙。57年前、任官間もない同期の裁判官で作ったという通信誌「いっすんぼうし」の創刊号は、こんな一文で始まる。編集世話人の一人が熊本さんだつた。
 夢や使命感に躍るような寄稿文の数々。「博識で、弁も立って。世の中には頭のいい人間がいるものだなと」。同期で弁護士の木谷明さん(83)が懐かしそうに振り返る。
 東京地裁、静岡支部をへて1966年、静岡地裁に赴任。その年に静岡県で起きた一家4人殺害事件の被告、袴田巌さん(84)の公判を担当し、無死刑判決を書いた。「袴田事件との遭遇は、彼にとって不幸な偶然でした」と木谷さんは言う。
 半年後に辞職。消息もと途絶えたが、2007年に突然姿を現し、当時の経緯を告白した。
自ら書いた死刑判決 深く悔い
 「自白に疑問を抱き無罪判決文を書いたが、裁判長ら3人の合議で多数決に敗れ、死刑判決に書き換えた」。元裁判官として異例の行動だつた。
 自責の念から酒におぼれ、家族と別れ、自殺も試みたという。「袴田さんに会って謝りたい。最後はまるでそのために生きているようでした」。牧師の田宮宏介さん(63)は、願や脳梗塞で不自由になった晩年を近くみつめてきた。
 14年、静岡地裁の再審開始決定で袴田さんが47ぶりに釈放された。18年、入院中だつた福岡県市内の病院を袴田さんと姉の秀子さん(87)が見舞う。「いわお」「わるかった」、ベッドでかすれた声を振り絞った。
 その後も入院を続けた。そばで支えた内縁の女性には若い判事補時代を懐かしみ、思い出を語っていたという。再審は18年に東京高裁が決定を取り消し、最高裁で審判が続く、自ら書いた死刑判決の行方は、見届けられなかった。          (高橋淳)
  11月11日死去  (急性肺炎)  83歳