No1 No2 No3  No4 大城立裕・杉村隆・李健熙 矢口高尾・岡田裕介・熊本典道 一龍齋貞水・出口典雄・西川右近
 「ばかやろう」「お前な」修業時代の話を聞くと、師匠や先輩の口調をまねた荒っぽい言葉が飛び出す。矛先は聞き手ではない。講談の定席、本牧亭(東京・上の)に通った。若き日の自分に対してだ。
 席亭の長女だった清水孝子さん(81)によると「今の若い人比べると、きちんとした言葉遣いでした。絶対タメ口なんかはきかなかつた」という。「いい男でした」
 生涯住み着いた湯島は、東京の山の手と下町の境にある。実家が裕福な父に育てられたからか土地柄なのか、品の良さとわんばくさを併せ持っていた。
 入門した昭和30年代の講談界はどん底へまっしぐら、後輩が入らず、10年ほど前座を務めた。かわりに、明治の全盛期をしる古老の薫陶をうけた。邑井貞吉、五代目一龍齋貞丈ら名人上手が健在。
 
 講談は好きではなかったという一龍齋貞水さん。「波長が合ったんだろう理屈じゃないんだよね」
    =2016年、今井卓さん撮影
孫のように可愛がられ、彼らの芸を骨肉とした。 
 照明や音響を自作の釈台で自ら操る「立体怪談」で有名になつたが、「赤穂浪士伝」にお家騒動、政談と何でもござれだつた。せき立てるような抑揚があった七五調は、年をへて滑らかに、朗々となっていく。清水さんは、60歳を過ぎて口演した前座ネタ「
三方ケ原軍紀」を聴いて「修羅場ってこういうんだ」としびれた。
 講談師初の人間国宝に認定されてからは、看板を自任した。「伝承の会」など若手が勉強する機会を設ける一方、マニュアルに慣れた弟子たちを「察しろ」と突き放す。次々とやめても気にとめなかった。
 2000年入門の一龍齋貞橘さん(41)は「荷物は重たい者から持て」と教わった。「何を語るかではなく、誰が語るか。気遣いができるようになれば、、芸もおのずとうまくなる。」と
 60代でがんを患い、両方の肺を3分の1ずつ切除した。寝たきりでも
 















一龍齋貞水さん


 
講談師
 







品の良さと わんぱくさと
  
 おかしくない状態なのに、高座で大声でしゃべり続けた。主治医に呼ばれ、学会で講釈を一席やったこともある。首をかしげる医師たちに「芸人はカネがからむと丈夫になります」とうそぶいたとか。
 昨年11月25日、湯島天神参集殿での「連続講談の会」は、出番なっても息が整わず、弟子がつないてた。その講談が終わらないうちに元気が戻り、待てなくなったのか高座横の下座でしゃべり始めた。ついに年配の客に「うるさいよ」と注意されたが「うるせえ!」と言い返す。
 最後の高座まで、わんぱくな先生だつた。
       (井上秀樹)
 2020年12月3日 死去  本名 浅野清太郎  81歳 
   演出家・劇団シェイマスピア―主宰 出口典雄さん
  生涯打ち込んだシェークスピア作品の演出について語る出口典夫さん=2015年
 1981年5月6日の朝日新聞夕刊に、41歳の演出家の意気軒高な言葉が掲載された。
 「金にも名声にも結びつかない小劇団の無謀ともいえる試みに、若い俳優たちが入れ代わりたち代わり取り組んでくれた」
 75年の劇団旗揚げから6年がかりでシェークスピア全37作を演出する偉業を達成。最終作の開幕を前にした感慨だつた。東京・渋谷の小劇場ジァン・ジァンでジーバンにノーメイクの俳優たちが簡素な舞台を疾駆。猛烈な速度でセリフを語った
 「リズムや店舗のよさに喜劇の面白さ。古典ではなく現代劇として迫ってくる。衝撃でした」。観客として通った演劇プロジューサー渡辺弘さん(68)は振り返る。再演を含めてほぼ毎月上演された「演劇マラソン」に併走した英文学者小田島雄志さん(90)による、坪内逍遥以来の個人完訳も生まれた。
 島根県出身。東大卒業後、文学座と劇団四季をへて劇場探求
劇聖を追い 峻烈究めた稽古
 劇団の稽古は峻烈究める「出口学校」だつた。
 若き日に在籍した吉田鋼太郎さん(62)は「戯曲の行間の読み方やセリフの緩急、抑揚を一から教えてくれた。『違う』と罵倒され、1行に4時間かけたことも。おっかない方でしたが、ずっと師匠です」。蜷川幸雄演出作や主宰する劇団AUNで日本を代表するシェークスピア俳優になった吉田さんは「もう一度会いたかった」と惜しむ。
 劇団外の演出でも活躍したが、そこではシャイな素顔がのぞいた。と渡辺さん。「周囲を気遣う方でした」。90年に一緒につくった「夏の夜の夢」では戯曲の分析力に目を見張った。
 劇団員の西山公介さん(30)は「俳優の人生を重ねるように配役してくれた」と話す。昨年6月の「リア王」がコロナ過で中止となったが、シェークスピア劇を縦横に語る動画を配信。最後まで現役の演出家だつた。
   (編集委員・藤谷浩二)
 2020年12月18日 死去 (誤嚥性肺炎)   81歳
「名古屋おどり」の日本舞踊家 西川右近さん 
名古屋おどりの長唄「紀州道成寺」で住僧役を舞う西川右近さん=2017年、西川流家元事務所提供
 芸どころ名古屋」を引っ張り、この地のフロンティア精神を体現した。多才な文化人だつた。
 日本舞踊の大流派・西川流の二世家元、西川鯉三郎の長男として生まれ、3歳で初舞台。1659年に西川右近の名で本格的に舞踊家としての活躍を始めた。81年には終戦直後から続く長期舞踊公演「名古屋をどり」を先代から継承した
 83年に家元となった翌年には夢だつたという北米公演を成功させた。長男で現家元の西川千雅さん(51)によると、地元の企業経営者らとの広い親交を生かして渡米資金を集め、敏腕ビジネスマンの一面もあった。型にはまらず、時代にあっていないと生き残れない名古屋ならではの文化人だつた。
 西川流最大行事の名古屋をどりはその象徴だ。演出家久世光彦さんと江戸川乱歩の世界を再現し、フラメンコと日本舞踊を融合させたこともある。フ
伝統と闘った多才な文化人
ォ―クシンガー岡本信彦さんの曲を使った舞台も話題を呼んだ。劇団などの振り付けも含む3千作以上を残し、舞踊脚本や時代小説の執筆にも活動を広げた。
 92年の名古屋をどり前日に心臓を悪くして緊急入院。踊りの稽古を再開して早く快復したことで日本舞踊エクササイズ「NOSS」を創案し、厚生労働省の支援事業に採用された。
 2003年の著書「やっぱり古いが面白い!」で、舞踊脚本の執筆を始めた理由を「父を越えよと意識してのことだつた」と書いた。先代が築いた伝統と闘う情熱がこれほどの功績につながつたのだろう。
 千雅さんは「生き様を見せてもらったことが一番の財産。右近の息子、西川流だからこそ、今の自分がいる」とさらなる進化を誓う。
 昨年はコロナ過で名古屋をどりが中止になった。「復活舞台」ての舞を見たかった人も多いはずだ。
            (小原知恵)
  2020年12月12日 死去 (急性心不全)  本名 近藤雅彦  81歳