No1 No2 No3  No4 C・W・ニコル・佐々部、清・内田、勝正 井波律子・犬丸一郎・崔書勉 志賀廣太郎・菊畑茂久馬・皆川達夫 
田畑精・伊地智啓・奥野正男 加藤茂雄・かつお きんや・白善燁
   作家 志賀廣太郎さん 
 名脇役は、突然現れた。1995年のテレビCM。放言する作家に落ち着きながら少しとぼける編集者風の男を演じた。
 しだにドラマや映画で引っ張りだこに。そのへんにいそうな「中年らしさ」で親しまれた。
 遅咲きはごもっとも。本業は母校・桐明学園芸術短大で演劇を教える非常勤講師だ。いつもジーパンに赤いチェックのシャツ姿。学生には「志賀君」と呼ばせ、おやじぎギャグでうちとける。「そのアイディアいいね」と認めた。「和やかな雰囲気で始まって、打ち上げまで平和だった」と教え子は口をそろえる。
 演劇は10代で始めた。短大で同期だつた舞台監督の桑山正道さん(72)によると、学生時代は最前列の席で講義を受ける真正直な優等生だつた。 
 90年、劇団(青年団)の舞台に上がり、教員との二足わらじをはく。主宰の平田オリザさん(57)と酒を飲み、「平田さんの戯曲を学生に演出したい」とt語るうち、「出たい」と訴えたという。40歳を過ぎていた。
 「言われたとおりやって、自分で楽しむ役者」と平田さんは評する。代表作「東京ノート」では、志賀さん扮する学芸員が長い演説をする。    
教育者として名わき役
  芝居がかって聞こえてしまう美声を生かすためつくった場面だ。
 教え子の兵藤公美さん(46)は青年団に入ってからいろんな面を知った。酒に酔うと「背負い投げしたいなあ」とつぶやき、電車内で「ワンワン」とほえる。玄人はだしの料理を振る舞う。有名になっさても特別扱いを望まず。劇団公演の受付で切符をもぎった。
 舞台や収録と掛け持ちしながら昨春まで短大で教え、退職直後に脳震盪で倒れた。
 本分は教育者だつた。今村花さん(22)は授業で出身地・沖縄の米軍基地問題について語った際、思いが高まって泣いてしまった。後で言われて。それでいいんだ。役を自分に近づけて演じるんだ―。俳優となつた今、言葉が胸にしみている。
 俳優の池田紫陽さん(24)も鮮明に覚えている出来事がある。上演実習の打ち上げ代はスタッフをねぎらうため学生が負担する習慣だ。それを知った志賀さんは感情をあらわにした。「なんで学校が出さないんだ!」
 学生たちに見せた最初で最後の怒りは、枯れた役者が隠していた、筋を通す演劇生年の顔だつた。
       (井上秀樹)
  4月20日死去  (誤嚥肺炎)   71歳
   現代美術家  麦畑茂久馬さん
 麦畑茂久馬という名前の華麗さ。シャープな風貌と眼光。そして「反芸術綺談」や「絵描きと戦争」などの著作で見せた。批評性と時代を斬る筆のさえ。
 1993年に初めて取材したとき、「作家は、2度も3度も時代と寝るべきではない」という言葉も日日に残っている。
 福岡市郊外に腰を据え、60年前後には前衛美術集団「九州派」の中核として、高度成長の世を撃つうな土俗的な表現を見せた。さらに美術界のゲーム性を暗示する「ルーレット」の連作で内外の注目を集めた。
 転換期は70年。万博で「前衛芸術が(国家事業を支える)ゼネコンの一部門になつた」と言い、「(社会に)認知されたら 
鋭い批判性の裏に人情味 
もう前衛ではない」とも。
 以後、時代の先端に立つことは目指さず、ほとんど注目されていなかった、藤田嗣治らの戦争記録画や、山本作兵衛による炭鉱記録がに、時流を超えた絵画の本質を見いだし、論じた。自身はその後、物質感のある知的な抽象画などを展開した。
 身近な人に見せた顔は、しかし異なっていたようだ。60年ごろから呑んで語りあってきた、画家の谷川晃一さん(82)は「モクさんは、人情味があって愉快な人」と振り返る。
 長男の拓馬さん(58)によれば普段は家事もこなす「普通のおじさんむ。芸術家だと感じたのは、テレビの鑑定番組をみて真贋を当てた時ぐらいだった。
 一方で「福岡しいう。ただ一カ所から日本の歩みを定点観測した」と自負し、晩年の多幸感漂う明るい抽象画を「堂々たる叙情」と唱えた。谷川さんは「外に向けた表明と日常の両方が魅力的だつた」と語った。
 私の知る「菊畑茂久馬」は、菊畑さんの一つの表現だつたのではないか。今はそう感じている。
   (編集員・大西若人)
  5月21日死去 (肺炎)  85歳
   音楽学者 皆川達夫さん 
 子なる文化を生み出す。そのダイナズムに子どものような好奇心を向けた。真実を知りたいという執念は、もはや学者というより、探偵のそれに近かった。
 水戸藩士の家計に生まれ、幼少期から能楽を親しむ。一方いにしえから未来までを貫くグレゴリオ聖歌の透徹した響きにも心を射抜かれた。軍国主義の空気のなか、異国の音楽への関心を隠さぬ自身への冷たい視線が、己の心に決してふたをしない強靭な精神を培ってゆく。
 隠れキリシタンが信仰の礎とした「オラショ」伝播の経験を大著にまとめる傍ら、八橋検校の筝曲「六段」のおおもとがグレゴリオ聖歌だという革命的な説に
 聖歌と日本の出会探求
「音楽の泉」を収録する皆川達夫さん、柔和な語りが人気だつた=2008年、仲宇佐ゆりこさん撮影 強い関心を向けてゆく。当時の筝曲は必ず歌を伴っていた。にもかかわらず、なぜ独奏曲として残ったのか。それは歌詞が、禁じられていたキリスト教のものだつたから―。
 自ら復元した「六段」を、筝曲界の最高峰である野坂操寿さんと、自身が創設した中世音楽合唱団との共演で上演する。「真の学問にはすぐれた想像力が不可欠。皆川さんは対象への揺るがぬ好奇心を礎に、想像力の翼を広げ、人間の真実に迫った」とルネサンス音楽研究家の金澤正剛さん(86)は語る。
 史実の全貌はわからない、しかし、歌を媒介に、海も国境も時代も超え、多くの人々が主の御許にに願っていたことは紛れもない真実である。皆川さんにとって音楽は、あらゆる排除の意思にあがらい、誰もが自らの「個」を誇りに高く生き抜くための鍵を与えるものだつた。
 NHKラジオ「音楽の泉」で30年余り、音楽を知的に味わう喜びを人々に授け、3月末に自ら引退を告げた。「みなさん、ごきげんよう、さようなら」の何げない口調に、どんな時も音楽は、芸術は消して死なないという確信と希望を託して、
   (編集委員・吉田純子) 
  4月19日死去 (老衰)   92歳