No1 No2 No3  No4 C・W・ニコル・佐々部、清・内田、勝正 井波律子・犬丸一郎・崔書勉 志賀廣太郎・菊畑茂久馬・皆川達夫 
田畑精・伊地智啓・奥野正男 加藤茂雄・かつお きんや・白善燁 由井晶子・森崎東・坪山豊 西川善文・サムソン 宮本・源了園  
 女性ジャーナリストの先駆けとして沖縄戦後史に伴送した。
 1955年から40年余り、沖縄タイムス記者として活躍。論説委員や新聞業界では今でも女性が珍しい編集局長も務めた。
 スタート地点は51年の東京。那覇から上京し、早稲田大に入学した。あか抜けた都会になじみたかった。学生新聞には「沖縄人であることを忘れてたくさん学びたい」と書いていた。
 だが「我々は沖縄のことを絶えず考え続けなくてはならぬ」と同郷の先輩の批判が次号に掲載された。52年のサンフランシスコ講和条約発効で沖縄は日本から切り離される。復帰を求める訴えが渦巻くなか、いや応なしに社会や政治に目を開かされていった。
 沖縄タイムスに入社し、東京支社配属から1カ月後、沖
 
  沖縄タイムズ編集局長時代の由井晶子さん。
 身長約154センチ。「小柄なのに存在感はおおき  かった」と友人らは言う=1992年 
縄で6歳の女の子が米兵に性的暴行を受けて殺害された。「由美子ちゃん事件」として地元の人たちの記憶に深く刻まれる事件だが、米軍統治下の沖縄の実情は本土に届かなかった。憲法学者や文化人ら東京での人脈を広げ、取材だけでなく、沖縄の情報を提供することに奔走した。
 東京時代、代表作を残した
 76年、半年間174回にわたつて企画・担当した伝記「なはおんな一代記」だ。明治の那覇に生まれ大正・昭和の東京で、沖縄出身の若者の世話や「東京ひめゆりの同窓会」の活等に尽力した金城芳子さんの半生を。執筆を補佐して紙面化。「沖縄女性史の源流」と評された。
 由井さんは親交の深かった
国文学者で元琉球大教授の仲程昌徳さん(77)は「当時の世相や社会情勢を資料で綿密に裏付ける仕事ぶりは、取材記者としいうより伝記記者だった」と語る。
 女性」へのこだわりの根底には沖縄戦と米軍基地があると周囲には映った。戦中は九州に疎開。戦後に戻
    


ジャーナリスト 
由井晶子さん 



 沖縄の女性に光 当て続け
 った故郷で働き盛りの男たちの多くが犠牲となり、復興は沖縄の女性たちなしでは成しえなかった。
 その女性たちが戦後、米兵事件の恐怖にさらされる。沖縄女性史研究家の宮城晴美さん(70)は言う。「沖縄の女性たちにもっと光が当たるべきだという思い、犠牲になることへの怒りが由井さん原動力だった」
 97年の退社後は米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移動計画に揺れる辺野古に通った。体調を崩す2015年まで、日米政府の動きや市民運動の記録を雑誌に書いた。それが単著として残された。タイトルは「沖縄―アリは像に挑む」。
        (国吉美香)
 4月14日死去  (心不全)   85歳
 1993年、カンヌ映画祭参加(右から)伊地智
啓さんと相米慎二監督=「映画の荒野を走れ」から
 映画監督  森崎 東さん
 21日に公開される映画「糸」の瀬々敬久監督(60)は、今作で初めて組んだ倍賞美津子さんの姿に驚いた。誰もが認める大女優は、若いスタッフに小道具の使い方について意見を求めていたのだ。「森崎イズムが宿っているんだな」と思いに至った。
 森崎さんは映画づくりの場で誰かが幅をきかせることを嫌ったという。たとえ、それが監督やベテラン俳優であっても、倍賞さんの分け隔てのない気さくな振る舞いは、1969年の「喜劇 女は度胸」から8本の作品に出続けた森崎映画の看板女優ならではのものだ。瀬々さんは、そうみている。
 森崎さんがつくる映画も同様だ、主役ばかりが中心になるのではない。登場人物それぞれの個性を浮き上がらせた。「まるで寄せ鍋のような群像劇。僕もそんな映画がつくりたいと思っ
「喜劇」の底流に悲哀や怒気
っています」と言う。
 映画に落とし込んだ感情も、森崎さんならではの多彩さだつた。初監督「喜劇 女は度胸」や71年の「喜劇 女は男のふるさとヨ」のように「喜劇」とうたうさくひんにすら、底流には悲哀や殺気があつた。映画評論家の山根貞夫さん(80)は「アルルガム(融合体)」と評する「言い換えるなら、ごった煮のようなと独特の作品。それを見て、私たちは笑ったり、しんみりしたのしたものです」
 近所に住んでいたこともあり、45年にわたつて親交を結んだ。電話で呼び出されて自宅に向かうと、映画のアイデアをぶっけられてこともあつた。「いつも生活者の声を採り入れることを考えていた。監督だからと、偉そうにふんぞり返ることのない人柄でした」
 いま、庶民の心の機敏をすくい取る映画かどれほどあるだろう。コロナ過に対する後手後手の対策より、世間が泣き、怒り、右往左往する現代にこそ、森崎さんの新作が見たかった。
 7月16日死去 (脳梗塞) 92歳
 奄島の唄者・船大工 坪山 豊さん 
  坪山豊さん、本業の船大工への誇りが強く、物悲しい響きに生活の匂いがにじんでいた=2006年 
 裏声を多用し哀愁を帯びた節回しの鹿児島・奄美の島唄。多くの唄ヲ歌いこなせる人は敬意を込めて「唄者」と呼ばれる。
 20代で船大工として独立し、奄美伝統の木造船「アイノコ」を手がけた。島唄を始めたのは40代。1980年の第1回「奄美民謡大賞」だ大賞に輝く。要所で旋律を少し下げ、ひときわ物悲しく響かせる歌唱法は「坪山節」と称されている。
 掛け合いも奄美の島唄の特徴だ。親戚や近所の人の集まる宴席で、座が温まったころ、誰かが三味線を手に歌いだす。即興の詞を歌に乗せて意思を通わせあう「唄遊び」が始まる。
 唄者の西和美さん(78)が営む奄美市の島料理店「かずみ」では、毎晩のように唄が響く。西さんは坪山さん習い、89年に民謡大賞をとった。坪山さんがカウンターで三味線を弾き、料理の手を動かす西さんと掛け合った。いま、島唄を歌い継ぐ若手が唄遊びをする夜がある
 ひときわ物悲しい「坪山節」
 その一人、農業の松元良作さん(41)は、「『先生じゃなく、おじちゃんと呼べ』と言ったと話す。6年前まで奄美で勤務した私にも、坪山さんは西さんの店で会うと「歌って」と気さくに唄を振ってくれた。
 高校時代に唄を習って歌手の中幸介さん(40)は「声者になるな」との一言が忘れられない。「唄の意味や背景を熟知してこそ、なちかしゃ(味がある)と言いたかったのだろう」
 徳之島で盛んな闘牛の熱狂を歌った「ワイド節」も残した。78年、奄美大島のハンセン病療養所に勤める放射性技師が徳之島生まれの入所者のために書いた詞に、坪山さんの闘牛を見に行ってにぎやかな曲をつけた。
 船大工を継いだ長男の良一さん(57)は葬儀で父のワイド節をかけた。6年前に脳出血で倒れ、闘病が続いた。「きょうから毎日歌えるねって声をかけました」。後輩の唄遊びを見守り続けるだろう。
               (伊藤宏樹)
  7月20月6日死去  (老衰)  89歳