No1 No2 No3  No4 大城立裕・杉村隆・李健熙 矢口高尾・岡田裕介・熊本典道 一龍齋貞水・出口典雄・西川右近
 「文学不毛の土地といわれた沖縄についに芥川賞受賞の作家が誕生した」
 地元紙の沖縄タイムスは1967年、大城さんが「カクテル・パティ―」で沖縄初の芥川賞が決まったニュースを、そんな書き出しで伝えた。
 古歌謡「おもろ」や硫歌の豊かな伝統持つ沖縄が、なぜ本土の一文学賞をそこまでありがたがつたのか? 那覇市の自宅を訪れた際に尋ねると、諭すような言葉が返ってきた。「沖縄人が日本人になろうとした時、ウチナーグチ(沖縄言葉)が常にひっかかってきたのです」
 1979年、琉球王国が日本統治下に組み入れられ、沖縄県となつた「琉球処分」以来、「本土による差別に対し、同化を深めることで乗り越えようとしたのが沖縄の歴史でした」。穏やかな表情のまま語る言葉は明晰そのものだ
 
 住友銀行とさくら銀行の合併により誕生した、三井住友銀行の初代頭取に就いた西川善文さん=2003年
った。
 本土復帰などを巡り、論戦を交わしながらも親交のあったジャーナリストの新川昭さん(86)は「いつもクールで政治的に中立を保つ。皮肉を込めて(バランスを崩さない)やじろべえと言ったことも」と話す。それだけに、大城さんが2015年5月に開かれた米軍普天間飛行場の辺
野古移設に反対する県民大会で、実行委共同代表を引き受けたことに驚いたという。
 翌月、大城さんは杖をついて那覇市のホテルに現れると、朝新聞の取材に「(本土)復帰に弊害があるとしても『治外法権』の撤廃だけにかけていた。
 米軍人・軍属の事件・事故について、日本側の裁判権を
制限する日米地位協定は一度もされぬまま。半世紀前、「カクテル・パーティー」て゜描いた米兵の性的暴行を裁けない状況と、「一皮むけば同じ」とも。
 本来ならば作品を通して語りたい作家が政治的な声を直接上げざるをえないことにも憤っている
 















大城立裕さん


 
沖縄初の芥川賞を受けた作家
 







同化と異化揺れる心見つめ
  
 ように聞こえた。 
 「(本土への)同化と異化のはざまでゆけているのが沖縄の心」が持論だつた。近年は独自のアイデンティーをもとめる「異化が強まっている」。首里城が焼失した昨年10月31日に私が電話すると、「むしろ再建へ沖縄の心が結集するのでは」と若い世代への信頼を語った。
 復元に向けた国の技術検討委員会の委員長を務める高良倉吉・琉球大名誉教授は結婚式の媒酌人を頼んだ中。「素顔は気さくなザームチャー(座持ちのいい人)でした」
       (上原佳永)
 10月1127日死去  (老衰)   95歳
 他社製品と品質を比べるサンムスグループの展示会を訪れた李健熙さん=2011年サンムス提供  冠婚サンムスグループ会長 李 健熙さん
 1980年代。訪日のたびにソニーの音楽プレーヤー「ウオークマン」を携え、クラシックを聴きながら公園を歩いた。
 歩き終え、ウオークマン社員が随行のサムスン社員が、イヤホーンのコードを本体の幅が短い方に巻き付ける姿を見るや、しかつた「幅が長い方に巻き付けば回数が少なく、生産的だ」工場で無駄を省くよう指示を出すのと同じ発想だ。
 会長に就く前の74年。「日本の技術の植民地支配から脱するべきだ」と、社内の反対を押し切って倒産寸前の半導体企業を私財で買収した。ここから芽吹いたサンムス電子を、97年の通貨危機、2008年の世界経済危機と逆境
繊細で大胆日韓の良さ融合
 のたびに大胆な投資で飛躍させた
 コードの巻き方など細かすぎるかもしれない。だが、細部へのこだわりと大胆な決断力がかみ合い、サンムスを韓国財閥のトップ、そしてグローバル企業に押し上げた。
 小中学生の一時期を日本で過ごし、大学は早稲田を卒業した。秘書や日本サムスン社長を務めた鄭埈明さん(75)は「繊細な性格は多感な時に日本と接したためでしょう。細やかな日本、大胆に韓国の両国の良さを持っていた」と話す。
 日本企業を追い抜き、留飲を下げると思いきや、「日本と協力しろ」と幹部を繰り返し諭した。日本は打ち負かす対象ではなくパートナーだつた。
 韓国では影響力の強さから「経済大統領」と評され、気安く街を歩けなかった。訪日では心が解き放たれたように、好物のとんかつの老舗に足しげく通った。照れたような小さな声で、必ず「2枚を・・」と。
 日本をよく知るからこそ、競争に勝ち、協力相手として相乗効果を追求した。日韓関係が悪化するたび「大変だ。心配だ」と漏らした。その人生は、日韓の今後のあり方に何かを語りかけるのだろうか。        (神谷毅)

 
 10月25日死去 (老衰)  78歳
 国立がんセンター名誉教授 杉村隆さん 
  「義理と人情」を出したころの源 了圓さん。「もっといろいろな角度からの日本文化論が出てよいはず」と話していた=1969年 
 「自分がおもしろいと思ったことをやる以外にないんだね」。がんの研究者として厳しく、独創的な人だった。
 世の中のがんへの関心が高まってきた1962年、新設された国立がんセンター(現国立がん研究所センター)に移り、「遺伝子の変化によってがんは起きる」といち早く提唱した。
 妻が焼く魚か出る煙を見て、「これが体に何もしないわけはない」と、研究室で魚の干物を焼き、焦げに発がん物質が含まれていることも発見した。がんセンターの後輩で日本対がん協会長の垣添忠生さん(79)は「燃えるような熱気と集中力に魅了されたけとしのぶ。
 60年代に見つけたのは、傷ついたDNAの修復に関わる分子。30年以上たって、その分子の活性を低下つせる阻害薬ががん治療に仕えそうだと一気に注目された。今や卵巣がんや遺伝性乳がんの薬になっている。
 当時の中曽根康弘首相に掛け合い、8
研究も運営も独創性でリード
4年の「対がん10か年総合戦略」の策定に関わった。巨額の研究費ががんセンターに入った。研究仲間だつた西村出暹さん(89)は「一気にがん研究が加速した。研究み運営面もたぐいまれな人だつた」と言う。
 がんセンター総長、対がん協会長、東邦大学長、日本学士院長を務めたが、弟子の江角浩安さん(72)は「権威は好まず、85歳を過ぎても学会に出て、発表者の背筋が凍る質問をしていた」と話す。
 温かさもある。がんセンター総長時代、病院の電話の交換手や給食室や洗濯室で働く人に頻繁に声をかけていた。2003年に胃がんとなり、意を全摘したが、講演ではユーモアを交じて検診を大切さを訴えた
 亡くなる4日前。「最近の成果を持ってきてくれ」とがん研究センター理事長の中釜斉さん(64)に電話をした。受け取ることはできなかつたが、最期まで研究者だった。          (後藤一也)
  9月6日死去  (心不全)  94歳