内田裕也&織本順吉&栄木正敏 萩原健一&安藤士&中西香爾 吉沢久子&松原裕&森 モンキー・パンチ&バーナード・クリッシャー&草
京マチ子&遠藤ミチロウ&渡辺トメ 木村進・杉葉子・池田早苗 加藤・長谷川・敷島さん  小林圭二・深町純亮・農福知徳 No2 
2016年に集まった「熊取6人組」。右から小出裕章さん、小林圭二さん、川野真治さん、今中哲二さん、海老沢徹さん、遺影は瀬尾健さん=大阪府 
 原発研究者・元京大原子炉実験所講師
         小林圭二さん
 「反原発6人組」の静かな闘士
  京都大学で原子核工学を学んだ後、大阪府熊取町の京大原子炉実験所(現・京大複合原子力科学研究所)に入った。同僚5人と反原発の専門家集団として、市民活動を支えた。
 知人の大島茂士郎さん(65)は「大学時代は安保闘争に関わった。最初は原発容認派だつたがしだいに反原発に変わった」と話す。「研究すればするほど、危ないものだと感じるようになつた」と訊いた知人もいる。
 1972年に始まった四国電力原発(愛媛県)の原子炉設置許可取り消しを求めた訴訟では、原告住民を支援。80年には原発の安全をテーマに市民も参加できる自主ゼミを始めた。
 「熊取6人組」。人々は彼らをこう呼んだ。
 6人組の中でも原子炉物理に精通していた。炉内でプルトニウムを増やす高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)の反対運動に力を入れた。94年に「高速増殖炉もんじゅ 巨大核技術の夢と現実」を刊行し、高速増殖炉の危険性や技術的な問題点を指摘した。反対運動を技術面で支える大きな存在だつた。
 6人組のうち最後まで実験所に残っていた今中哲二さん(63)の退職を機に、2016年に開かれた自主ゼミ。パーキンソン病や
膵臓がんを患いながら、難病の妻の介護に追われる日常を明かした。続けて「反原発に引き続き貢献していきたいが、事情をくんで、きつい要求はなさらぬように」とちゃめっ気たっぷりに諦めて笑いを誘った。
 あまり知られていないが、登山愛好家だった。山仲間からは「ケイさん」と呼ばれた。
 「画壇の仙人」と呼ばれた熊谷守一の次女で画家の熊谷榧さん(90)も仲間の一人。葬儀では、榧さんが2年ほど前に「ケイさんと会うのは最後になるかも知れない」と思いながら描いた肖像画が飾られた。親交の深かった陶芸家の森岡由利子さん(64)は「山へ行くときに着る丸首の水色のウャア姿で、優しそうなケイさんが描かれていた」という。物静かで誠実。生前の姿そのままだった。
 だが、森岡さんは「実は、一度だけケイさんの『本質』を見た」と明かす。30年近く前、北アルプスの剣岳を眼前に突然、遭難して亡くなった知人の名前を何度も何度も絶叫し、涙した姿だ。
 淡々とした表情の裏に、常に熱い思いを秘めていた。それが本質だ。反原発の静かな闘士だつた。
           (服部尚)
  令和元年5月27日死去 (膵臓がんなど)   78歳
      筑豊炭鉱史の伝承者 深町 純亮さん
  著書を手に「伝右衛門への曲解を正したかった」と語っていた深町純亮さん=2005年、
 日本の「火床」と呼ばれた福島県の筑豊。戦後入社した炭鉱会社で、復興からエネルギー革命、閉山へと至る盛衰を見届けたあと、風化してゆく炭鉱遺産の掘り起こしに力を尽くした。
 会社勤めのかたわら、文献や新聞から炭鉱や社会の動きを丹念に書きとめ、後年、近畿大学の「筑豊近代化大年表」として結実した。無数にあったヤマのうたの歌詞を500以上収集し、自らも伝承者として消えゆくうたを歌った。採譜を任された声楽家の大屋省子さん(60)は「炭鉱の歴史を残したいという情熱に圧倒された」と語る。
 ドラマ「花子とアン」で吉田鋼太郎さんが演じた石炭王のモ
丹念に掘り起こしたヤマの記憶
テルで、粗野な成り上がり者として描かれることもあった伊藤伝右衛門の評価にも努めた、伊藤が妻の柳原白蓮とすごした邸宅や、水害に見舞われた芝居小屋・嘉穂劇場が存続の危機に陥ると保存運動の先頭に立った。
 深町さんが飯塚市歴史館長を務めていた時代に学芸員だった現館長の嶋田光一さん(64)は「炭鉱を負のイメージだけで捉えず、社会資本や文化、教育の充実など地域に貢献した面にも光を当てた」と話す。
 務めた会社は「麻生」。取締役まで努め、麻生太郎氏の地元事務所長だつたこともあ
  る。元同僚の柴田礼賛さん(80)によると、当意即妙の受け答えで場を和ませ、ユーモアあふれる人だつた。家庭でもクリスマスパーティーではガマの油売りの口上を披露するなど、「エンターティナーだつた」と長男健吾さん(64)は振り返る。
 80歳を超えてもバイクに乗り、転倒して腰を骨折してから足腰が衰えた。晩年は、かつて事務長を務めた麻生経営の病院そばの高齢者住宅で過ごした。
 筑豊からヤマの火が消えて半世紀。筑豊炭鉱史の生き字引は、自ら掘り当てた幾多の宝を残して、眠るように逝った。
      (垣花昌弘) 
  令和元年5月月26日死去 (心不全)   93歳 
         彫刻家 豊福 智徳さん
神経を研ぎ澄ませ、無言で創作に打ち込んでいた豊福知徳さん=2001年頃、福岡大宰府市。 
 楕円形の穴がいくつも開いた独特な造形―。シンプルだが一見しただけで豊福さんの作品とわかるほど強烈な個性があった。剣道や居合道を愛した好男子は、西洋の近代彫刻に登用の精神性を融合させた深遠な表現をひたむきに探求し続けた。
 国学院在学中の1944年、飛行兵に志願。終戦後、故郷の和尚の紹介で、福岡・大宰府にいた木彫家の富永朝堂に弟子入りし、木彫の腕を磨いた。
 59年に「漂流58」で高村光太郎賞を受けたのが転機になつた。翌年のベネチア・ビエンナーレに選ばれ、展覧会を見に行くつもりがそのまま滞在し、イタリアのミラノに居を構えて約45年にわたり創作を続けた。
 新たな抽象表現のアンフォルメル(不定形)運動などに刺激され、それまでの具象を卒業して自分の抽象世界を作りたいともがく日々。苦悩に末につかんだのが終生のテーマとなる、木板に穴をうがつ表現だつた。
楕円の穴に見いだした抽象世界 
  回顧録には「板の裏表からくぼみをみつけたら偶然穴が開いた」とあつたが、滞欧時代を知る美術評論家で多摩美術大学長の建畠哲さん(71)は「木塊に穴という空間をうがつ表現がむしろ作品の存在感を際立たせ、強靭な造形に昇華させることにきづいたからだろう」と話す。
 無数の穴が織りなすリズムに魅了され、平面から立体まで素材を変えて創作を重ねた。作品に哀感や叙情性が感じられるのは「死を覚悟した戦争体験が創作の原点にあつたからではないか」と、元福岡アジア美術館長の安永幸一さん(80)は語る。
 福岡市の博多港にある引き上げ記念碑「那の津往還」(96年)は、船上に人が立つ姿をイメージした集大成の大作だ。凛としたモニュメントは、特攻隊の一員として死の影を踏んだ自分と、命からがら引き揚げてきた人々が敗戦の苦渋を乗り越え、再び大海へこぎ出す希望の象徴に見える。  (安斎耕一)
   令和元年5月18日死去 (急性心不全)  89歳
 (令和元年)2019.6.29(土)    朝日新聞夕刊