No1  No2   No4 吉田晴乃・程一彦・池田欣一 三井義弘・長谷川堯・宮崎康 野坂操寿・長谷川龍生・イマニュエル・ウォーラーステイ 
池内紀・塚本協子・四宮生重郎 高須基仁・田中珍彦・ラドミル・エリシュカ  ジャック、シラク&岡本三夫&茂山千作 
佐藤しのぶ・川端俊介・ 宮原巍    
 音量は適度に落として
ソプラノ歌手



佐藤しのぶさん
 
一人ひとりに届けた力強い愛
   輝かしくてあでやかで、匂い立つような華があった。170センチ近い舞台姿はプリマドンナそのもの。ヴィオレッタやトスカといったオペラのヒロインの人生を幾度も歌い上げ、甘くせつなく深遠なる総合芸術の世界へとファンをいざなつた。オペラのカーテンコールで「しのぶちゃんっ!」と客席から声がかかったのはこの人くらいでは。
 子どものころはピアノ一筋。中学生で歌に目覚め、声楽の道へと踏み出した。国立音楽大を卒業後、狭き門のオペラ研修所へ。そこで所長だつた作曲家の團伊玖磨に出会う。「歴史上の人物だと思っていたので、『生きているんだ』って驚いたんです」。そう語る笑顔のチャーミングだつたこと。
 研修所では2年間、いつも朝は一番乗り。約2時間かけて埼玉の自宅から東京・代々木へ通い、稽古場の掃除を済ませ、発声練習もして講師や研修生を迎えた。修了後は「メリー・ウィドウ」「椿姫」「トスカ」などで主役を射止
オペラ「夕鶴」を演じる佐藤しのぶさん、作曲家の團伊玖磨に「しのぶちゃんに歌ってほしい」と言われていた=2014年
   2019年9月29日死去   (死因非公開)    61歳
め、静まりかえったNHKホールに響いた「オンブラ・マイ・フ」は神々しくもあり、一気にその存在を知らしめた。
 そんなプリマのもとへ一通の手紙が届く。「チェルノブイリ子ども基金」(東京都)から、被爆した子どもたちへ歌を届けてほしいという内容だった。
 周囲の反対を押し切り、ベラルーシを訪れたのは97年の夏、児童健康回復センター「希望」で、「赤とんぼ」などを聴かせた。同行した一人は「なんとも優しくす
てきな方でした。。神妙に聴いていた子どもたちに、優しい心が伝わったのでは」と振り返る。
 オペラ「夕鶴」で話題を呼んだのは2014年のことだ。團の代表作で、衣裳は盛り英恵さん(93)、演出は市川右団次さん(56)とドリームチームが結集。透明感のあるつうを演じ、稀有舞台をつくりあげた。舞台美術を担当した日本画家の千住博さん(61)は「客席に何千人といても、一人ひとりに
エネルギーや愛を力強く伝えられるオペラ歌手だった。いつも光り輝いていた」
 19年9月、公演のキャンセル発表。その5日後、つうのようにそつと旅立った。最後まで凛として。
        (谷辺晃子)
      山際淳司著「スローカーブをもう一球」の主人公 川端 俊介さん
 
 1981年、選抜大会1回戦の皇稜戦で力投する川端俊介さん=兵庫県西宮の阪神甲子園球場
 群馬の県立進学校の投手が山なりのカーブを武器に、チームを甲子園初出場に導く―
 翌春のセンバツ高校野球大会の重要な選考紙料となる1980年秋の関東大会で、準優勝した高崎高校。その快進撃を描いた山際淳司さんの短編ノンフィクション「スローカーブを、もう一球」の主人公だつた。
 「多分に、ひねている。ひねているから、しかし、彼はのっぺりとした高校球児のように汗と涙だけで甲子園を夢みたりはしない」と書かれた。身長170センチ余り。姉の森和子さん(58)は「足は遅いし、運動神経も私の方がいいくらい」と言う。
 練習に耐えかね、野球をやめようかと同級生に相談したとこともある。2年生になるころ、変則フォームに変えたのが転機になつた。カーブも習得し、制球力を磨いた。主将だつた佐藤誠司さん(56)は「エースになつてからは姿勢が違った」と話す。
変則のエース 教師の夢かなえ
 春の甲子園での1球目もスローカーブ。「みんな一番速い球投げるんだから、遅い球を投げてやろうと」語っていた。
 だが相手は星稜(石川)。強豪校の打者は打ち損じてはくれない。1-11の完敗だった。
 大学卒業後、会社員などへて小学校で教壇に立った。妻の紀子さん(45)は「とにかくまめな人」と振り返る。冬は早めに出勤して教室を暖め、学校で飼育していた動物を率先して世話した。通知表のコメント欄にはいつもびっしりと書き込んだ。
 2017年1月。6年生の卒業を控え、教室で突然倒れた。くも膜下出血だった。「子供たちの声が聞きたい」とリハビリに取り組んだが、18年秋に別の病気が発症。教室には戻れなかった。家族に残したメッセージには「夢だつた教師になれてよかった」と記されていた。
 体調を崩すまで高崎高校のOBチームに参加した。スローカーブの軌道は変わらなかった。  (盛岡航平)
   2019年10月22日死去 (隆起性皮膚線肉腫)  56歳   
      エベレストが見えるホテルを建てた登山家 宮原 巍さん 
 温和な表情、物静かな語り口で多くの人を魅了した。だが、行動は規格外、晩年になっても情熱のかたまりだつた。
 1962年、母校の日大山岳部登山隊で初めてネパールを訪れ、ヒマラヤのふもとで暮らす純朴な村人たちのために何かをやりたい」
 機械修理などの技術指導の職を得てネパールに移住。エベレストのふもとに行ったとき、世界最高穂を一望できる標高約3900メートルの高台の存在を知り、「ここにホテルを建てよう」と決意した。資金はネパール政府や日本の山仲間らから集め、72年に「ホテル・エベレスト・ビュー」を完成させた。近くの平坦地には小型機が発着
情熱と信念 ヒマラヤに生きる
ヒマラヤを愛した宮原巍さん、エベレストを背に笑顔を見せる=2016年、ヒマラヤ観光開発提供 できる飛行場まで造った。
 無鉄砲とも思える事業の背景には「工業よりも、雄大なヒマラヤを利用して観光産業を育てるべきだ」という信念があった。「ヒマラヤ観光開発」を設立し、トレッキングブームの火付け役になった。村人は山岳ガイドやポ―ターとして働き、現地の雇用を増すことができた。 私は何度かホテルのテラスを訪れ、エベレストを眺めて熱いコーヒーを満喫した。いつもトレッキング客でにぎわっていた。
 2007年には「観光産業振興」などを掲げ、゛ネパール国土開発党」を旗揚げした。国会議員にはなれなかったが、挑戦への意欲は衰えなかった。
 13年、冒険家の三浦雄一郎さんか80歳でエベレストに登頂したときに同行取材した私は、カトマンズで会った宮原さんの言葉に驚いた。「年㊤の三浦さんが頑張る姿を見ると、自分もまだ何かできると思う」
 ネパール国籍を取得し、ネパールの山岳観光の発展に尽くした生涯だった。会社は娘の宮原ソニアさん(37)が引き継ぎ、父の遺志を伝えていくという。
        (近藤幸夫)
  2019年11月24日死去 (多臓器不全)   88歳    2月8日に東京都千代田区のアルカディア市ケ谷でお別れの会
令和2年(2020.1.7日)    朝日新聞