No1 No2 坂本フジエ・山谷初男・伊丹三樹彦 上原省三・小川原格・太田隯 梅宮辰夫・柴田駿・太田敏郎 
小川誠子・藤田宜永・鈴木英彦 宍戸錠・奈良原一高・神谷誠二郎 高木守道・伊東勝人・前田孝允 別所実・吉岡剛・野間美喜子
 音量は適度に落として










梅宮辰夫さん
 

俳優・タレント
 
華と愛嬌 全部の夢かなえる
 ちょっと怖いヤクザや不良の映画でも、独特の愛嬌濱口を広げていた。バラエティーの世界でもその個性は浸透し、お茶の間に広く親しまれた。
 日本大在学中に役者を志す。「女にモテて、いい車に乗って、いい酒が飲めて、海の見える場所に家を建てたい」。役者の道に進んだ理由について、周囲に再三そう語っていた。
 1958年、東映の第5期ニューフェイスに選ばれると、直ぐ人気に火が付いた。代表作となる不良番長シリーズなど14作で梅宮さん起用した監督の内藤誠さん(83)は、ひと目見てそのオーラにほれ込んだ。
 「あの体格と甘いマスク、そして独特の雰囲気、ワンシーン出るだけで全部持つて行ってしまう、天性の華があった」
 「仁義なき戦い」シリーズなどで人気絶頂だつた30代半ばに、精巣がんの診断を受ける。
  2013年、NHKドラマに運転士を目指す老人役で梅宮辰夫さん、晩年は役柄に幅が出た=千葉県
肺に転移し、余命半年と付けられた。抗がん剤治療で奇跡的に命をつないだ。90年代以降は、こわもてとおちゃめさとのギャップが受け。「いじられキャラ」としてバラエティー番組に引っ張りだこになった。
 長女のアンナさん(47)は父について「私の運動会になると張り切って、明け方からおにぎりを100個も作ってみんなに振る舞っていた。優しすぎて、何度だまされても人間をとことん信じる人だつた」と振り返 
 る。幾度も詐欺にあい、獄中の見ず知らずの人から手紙で来た「ビジネスをしないか」という誘いにだまされ、数百万円を失ったこともあったという。
 6度のがんを経験し、何度も克服してきた。晩年まで、仲間を集めて宴会をしたり、パーベキューで料理を振る舞ったりするのが好きだつた。亡くなる3日前も、忘年会を開いてシャモ鍋と焼酎のロックを楽しみ、冗談を言って笑わせていた。
 「海が見える場所に家を」。
 若き日の願いをかなえ、2年前に神奈川・真鶴の海沿いに居を移した。最後は、海が見える自宅のソファで眠るように息を引き取った。「全部の夢をかなえた人生だったんじゃないですか」とアンナさんは話す。
 死去の8日後、準備した自伝が世に出た。あとがきにはこう記した。「もう現世への未練や欲がないっていうか、思い残すことはないってことさ」「映画ファンには生きているうちに別れの挨拶くらいしておいたほうがいいだろうな。死んだら、何も言えないからさ(笑)。じゃあな、あばよ」     (定塚遼)
 2019.12月12日死去   (慢性腎不全)  本名梅宮辰雄  81歳  
     フランス映画社社長 柴田 駿さん
 洋画といえばハリウッドの娯楽映画がほとんどだつた時代。フランス映画社は、ギリシャのテオ・アンゲロプロス、ドイツのピム・ベンダース、スペインのビクトル。エリセといった、アート映画の優れた監督をいち早く日本に紹介し、東京を世界で有数の映画都市にした。
 「柴田さんは二つの顔を持つていた」と映画監督の柳町光男さん(74)は話す。「配給会社の社長の顔と評論家の顔です。映画評を書くわけではないが、どんな映画を買い付け、どんな形で観客に見せていくかを常に真剣に考えていた。その姿勢が僕には批評行為に見えました」
 柳町さんが1980年、『十九歳の地図』でカンヌ国際映画祭に参加した時に出会って以来の付き合いになる。「いつも業界の常識に挑んでいました」。上映時間5時間16分の「1900年」を82年に公開。今では当たり前になつているアジア映画やドキュメンタリーの商業映画
評論家の目でアート作品配給 
の先駆者でもあった。
 栁町さんは言う。「配給作品は何十回も見て、全カット、監督の意図を理解しようとしていました。自分が理解できないカットのある作品を観客に見せるわけにはいかない。海外の監督たちに、電話やファックスで何度も意図を確かめています」
 関ペ葉を求める姿勢はしばしば周囲とのあつれきを生んた。映画祭プログラマーの富田三起子さん(69)は柴田さんに頼まれ、来日した海外の監督のアテンドをした。「アンゲロブルス監督ともしょっちゅう口論をしていました。おもに柴田さんの方が理不尽に怒っていました(笑)」
 2012年にアンゲブロス監督が事故死した時、訃報を電話で告げたのが私だつた。電話口の向こうで言葉が出てこなった。無言の時間の長さに、監督への愛の深さを感じた。映画を愛して愛の深さを感じた。映画を愛して愛し抜いた人がまた一人、いなくなった。     (編集委員・石飛徳樹)
   2019年12月17日死去 (慢性閉塞肺性疾患)  78歳   
   神戸ルミナエの継続に尽力したノーリツ創業者 太田 俊郎さん 
 一代で国内有数の給湯器メーカーに育てた創業者。というより、地元・神戸では「ルミナエおじさん」として知られた。
 「あの光を見てみな泣いた。継続すべきや」。1995年に始まった光の祭典「神戸ルミナエ」。阪神・淡路大震災の犠牲者の鎮魂や復興を願い、1回きりの予定だつた。続けるには企業の協賛金が頼み。知己の経営者に直談判し、「神戸にはお世話になったじゃないか」と訴えた。渋る相手にも「よろしく頼みます」の一言で落とした。
 ノーリツ元社長の竹下克彦さん(77)は「社長さんはみんな、『太田さんに言われたらしょうがない』と言う。『来年はうちには来ないよう、太田さん
復興の光 ともし続けた思い
神戸商工会議所で会頭代行を務めた頃の大田俊郎さん。神戸ルミナエの継続を訴えた=2004年 言っとこ』と冗談を言われたこともありました』と振り返る。
 期間中の週末には会場の交差点にひとり立ち、行き交う人を見届けた。事務局の打ち上げにも夜中まで付き合う「親分肌」(神戸商工会議所の津田佳久事務局長)でもあつた。
 兵庫県姫路市出身。会社を興した神戸は、戦後の復興をともにした「朋友」でもあり、「生涯あこがれ」の街でもあった。
 海軍兵学校時代、厳しい鍛錬の後に入った風呂のありがたさが忘れられなかった。終戦後の51年、家庭で簡単に沸かせる「能率風呂」を売り出した。浴槽を直火にかける「五右衛門風呂」の重労働から解放し、全国に内風呂の文化を広めた。
 「何が何でも、やるんや」。システムキッチンの製造や海外展開も進めた。震災で本社が入るビルが全壊しても神戸を離れることなく、工場もすぐに復旧させて、生産を再開した。
 親交が深かったバンドー化学名誉顧問の雀昌吾さん(90)は「これと思ったら脇目も振らず、とことんやり遂げる人でした」と惜しむ。その性格は、ルミナエに没頭した晩年の姿にもにじんでいた
         (大川洋輔)
  1月15日死去 (肺炎)    92歳 
 令和2年(2020.2.27日)    朝日新聞夕刊