改元 平和な日本を象徴
 ―イスラム社会の「時」の考え方とは、どのようなものでしようか。
 元号は権力者が時を支配することが根拠ですが、イスラム暦はもっと複雑で、宗教的な太陰暦と、国家運営のための太陽暦があります。基本は1年を354日とする太陰暦です。30年間に11日の「
     元号を知るには異世界のことも知っておきたい。イスラム研究の第一人者でもある東大寺長老に、イスラム暦の仕組みを聞いた。 
東大寺長老・森本公誠さん 
閏日」を入れますが、それでもずれてくるので、行政上はとても使いにくいのです。そこで、太陽暦を使います。イスラム帝国のアッバース朝(750~1258年)では、毎年の予算を立てるときには、太陽暦を使いますが、支出、例えば兵士の給料などは太陽暦で支払います。
 ―二つの暦があると運用が難しかったのでは。
 年度の開始は夏至の日としました。しかし、宗教上の理由で閏を入れられなかったので、ずれが生じます。徴税を始める時期は小麦の収穫期に合わせて修正し、税金のための年度を別に設けました。こ
 もりもと・こうせい 
 1934年生まれ、東大寺長老。初期イスラム史研究の第一人者。著訳書に「イスラム帝国夜話」(岩波書店)、「東大寺のなりたち」(岩波新書)など。  うすると収入は収穫に煩わされ、毎月の給料を支払おうにも、現金が不足する時期が生じます。そこでユダヤ人の銀行家からお金を借りて運用しました。国家が借りるのではなく、宰相が利息を私費でまかないました。発覚しらクビです。行政能力があれば、莫大な報酬を得ることもできたのですが・・。
 ー時が経済に大きく影響したわけですね。
 税金が金貨では重たですね。そこで、小切手が流通し、換金時には手数料が発生する。そうした仕組みが1千年以上前に発達し、国立銀行の考え方がアッバース朝に生まれることになりました。
 日本では明治維新後、新政府は財政難でした。それを救ったのが明治5(1872)年の改善です。大陰太陽暦の12月3日をグレゴリオ暦の明治6年1月1日にしたので、1年が11カ月になり、ひと月分の予算を強引に減らせた。寺院の土地なども召し上げ細切りにして売却したのもこのころでしよう。
 ーイスラム社会で改元のようなことはあるのですか。
 ありません。現在も宗教行事は
 太陽暦です。困るのは断食月(ラマンダ)の時期です。日中は水も飲めないので、ラマンダが真夏にめぐつた来たら大変苦しいです。
 ―今回の改元のように、暦が話題になることはなさそうですね。
 安心安全、安泰というか、平和というか、今の日本を象徴するようなできごとてせしたね。上皇陛下が高齢を理由に退位を訴えられたのですが、現在の官僚制度の中では大変勇気のいることだつたでしょう。退位とはなにごと、と考える人もいたわけですから。
 「万葉集」からとは意外でした。日本の古典も候補に挙がっていると聞いて、奈良時代にできた日本最古の漢詩集「懐風藻」あたりかなと思っていました。「令和」から「命令」は連想しませんでした。ある辞書によると、「令和」という名前の人が古代中国に数人いたそうですね。「命令」の意を名前には込めないて゜しようから、よい意味だと思っています。    
   (聞き手・小滝ちひろ)
 「消えた世界宗教」としてしられるマニ教の創始者マニ(216年ごろ~279年ごろ)を描いた絵画が、奈良国立博物館(奈良県)で開催中の「国宝の殿堂 藤田美術館展」(朝日新聞社など主催)で公開されている。大阪の実業家が収集してきた美術品を公開するためにつくられた藤田美術館が所蔵するが、「地蔵菩薩像」とされ、長年収蔵庫に眠っていた。近年の研究でマニ像と確認された。12から14世紀の中国で描かれたみられるが、いつ、どのようらして日本に伝わったのかなど多くの謎に包まれている
 奈良博などによれば、「絹地に鮮やかな彩色が施され、縦約138センチ、横   地蔵菩薩像「マニ像」だつた
約68センチ。複数の段を持つ台座の上に置かれた蓮台に、特徴的な白い大衣を羽織って座り、右手は胸の前で手のひらを見せ、左手は腹の前で衣の裾を取っている。大衣には赤と金色の縁取りがあり、白色地に金泥で文様などが表現される。台座に複数の走る獅子や、楽器を演奏する女性の「楽人」などの表現もあるが、台座の形式や服装、文様などからは仏画の影響が色濃いとされる。
 13~14世紀ごろの元~明代に中国沿岸部の江南地方(現在の浙江省や福建省など)で描かれたとみられる。美術館の記録では「地蔵菩薩像」とされ、室町時代の作とみられる普賢菩薩像と文殊菩
 
薩像と一緒に収められていた
 1937年の美術誌「国華」に「宋画道像」としてモノクロ写真が掲載されたことがある。数年前、吉田豊・京都大学教授(言語学)らの研究グループが、両肩と両ひざのあたりに描かれた四角形の文様などマニ教の絵画の特徴とみて、マニ像と指摘。このほど吉田さんらが奈良国立博物館で実物を見て、マニ像であることを確認した。吉田さんは「近年の研究で、日本に伝来した元~明の江南で制作された仏教絵画の中に、マニ教の絵画が複数存在していたことが分かってきた。マニ教絵画は海外でも限られ、大変貴重な作品だ」と話す。
 森安孝夫・大阪大学教授(中央アジア史)によれば、マニ教は、メソポタミアで生まれたイラン人のマニが3世紀に創始し、キリスト教に基づき、ゾロアスター教や仏教、ジャイナ教などの思想をとりいれた二元論的折喪宗教。ローマ帝国ではマニ教が先に入
ったキリスト京を追い上げ、4~5世紀に最盛期を迎えた。マニ教の思想はキリスト教諸派の中で中世まで生き延び、欧州社会にも影響を与えた。
 一方、シルクロード交易に活躍したソグド人などの仲介で東方に伝搬したマニ教は、8~9世紀に内陸アジアを支配したウイグル帝国の国教になり、唐帝国にマニ教寺院の建設を要請する。だが、9世紀の唐代に「会昌の廃仏」と呼ばれる仏教弾圧が起こり、マニ教も弾圧される。一部が江南に逃れ流行したが、南宋時代には邪教として弾圧され秘密結社的に生き残った。森安さんは「宗教に寛容だったモンゴル人支配の元朝で、マニ教徒がマニ像などの製作をおおっぴらに仏画工房に注文したのだろう」と話す。
 展示は12日まで。問い合わせは奈良国立博物館のハローダイヤル(050.5542.8600)へ。
       (塚本和人)
 令和元年5月1日(水)  朝日新聞夕刊