上方落語の定席、天満天神繁盛亭(大阪市北区)が15日で開場10周年を迎える。2006年、60年ぶりに大阪に復活した「噺家の城」は、上方落語をどう変えたのか。節目を前に、上方落語協会の副会長で繁盛亭の運営を担う桂春之輔に聞いた。

 「東京へのうらやましさ、悔しさより、落語の定席なんてまず大阪には無理やと。期待すらしてなかった」
 三代目桂春団治に入門した1965年当時、上方落語は低迷から抜け出そうと道半ばだつた。定席が姿を消し、漫才がお笑いの主役にいた。同じ年に出版された「現代落語論」の中で、
立川談志は「大坂の若手がこの東京の寄席へきて(中略)、本当の上方の噺を残すべき」と書いていた。読んだ春之輔も「将来は東京暮らしやと思っていた」
 のちに「四天王」と呼ばれる桂米朝らは、街のホールを使った落語会のスタイルを確立させ、上方落語を盛り上げたが、落語専用の劇場は噺家たちの悲願だつた。それを現実へと導いたのは、上方落語協会会長の六代桂文枝だ。大阪天満宮から無償で土地を借り、個人や企業から2億円を超える寄付を集めた。
 オープンしたとき、舞台袖にいた桂ざこばが「おい、昼間から落語でお客がわろてるで!」と驚いていたのを思い出すという。「漫才が主流で落語は添え物という意識が根付いていたんですわ」
 落語向けに建てられた繁盛亭について、「入れ物が小さいから、噺家の芸がそのまま見える。怖いところでもあるが、自分
を表現するにはうってつけ」と評する。それまでここに活動していた噺家が交わる機会が増え、「ネタの数も演じ方の工夫も変わった。比べられことが一番勉強になるんです」。
 一方で、開場から10年が経って心配事も出て来た。「開場したあとに入った噺家は、甘いわけですわな。(繁盛亭が)あって当然やというところから出発していますから」。繁盛亭の出演が許されるのは入門から3年目がめどだが、若手には喫して順番ではないと言い聞かせているという。
 「もんなそつがない。平均点。行儀がようて、とんでもないやんちゃなやつもいない」。「四天王」亡きいま、繁盛亭から次のスターが出てほしいと願い、「もっと凹凸があっていい。創意工夫、個性で行け」と激励する。
 難しさも感じる。六代文枝、笑福亭鶴瓶らはテレビでスターになった。だが、いまの目であは噺家を求めていないとみる。「でも、それが元来の噺家のかたちかもしれない。落語をやって、寄席に足を運んでもらう。そういう意味では、繁盛亭はますます大事になるやろね」
        (山崎聰)
師匠・米朝懐かしんで
桂宗助 11日大阪で独演会
 桂米朝宅で住み込みで修業した最後の弟子、桂宗助が、11日午後2時から大阪市中央区のテイジンホールで独演会を開く。高座姿が米朝に似ていて「昔はモノマネやとか言われましたけど、似せようてして似るもんじゃない。いまでは埃やと思っています」と語る。
 演目は、いずれも米朝の得意ネタだつた。「稲荷俥」「算段の平兵衛」「けんげしゃ茶屋」の3席「どれも師匠が復活させたネタ。おもしろさを味わっていただきつつ、米朝を懐かしんでもらえたら」

 2500円(当日3千円)。米朝事務所 06.6365.8281
 天満天神繁盛亭が10周年を迎える15日朝、地元の天神橋商店街で落語からの「お寝れ」がある。商店街は建設費の募金活動を支えた「恩人」で、オープン時もお練りで祝った。10年前と同じコースをにぎやかに練り歩き、感謝の気持ちを伝える。
 初代桂春団治にちなんだ赤い人力車に乗り込むのは、上方落語協会会長の六代桂文枝。10年前のお練りでは、1月に亡くなった三代目春団治が乗っていた。分子は「10周年も一緒に歩きたかった」と悔やみつつ、「たくさんの人に来ていただき、繁盛亭の新たなスタートを祝ってもらいたい」と話す。
 午前8時半「大阪くらしの今昔館」(大阪市北区)前のあいさつからスタート。寄席囃子を奏でながら商店街を練り歩く。途中のJR天満駅でもあいさつがあり、約1時間半かけて大阪天満宮に到着。参拝後、繁盛亭前で鏡開きと振る舞い酒がある。
 この日は10周年記念の特別公演が午前11時、午後2時半、午後6時の3回開かれ、文枝らが口上を述べる、来場者には特性のクリアファイルと、繁盛亭でのネタ番付を書いた資料が贈られた。
 また10月から、冬季用・新宿末廣亭の「深夜寄席」を参考にした「乙夜寄席」を始める。開園は第2、4火曜の午後9時半。若手が出演し、新たなファンの獲得をめざす。
 10周年を機に、216席ある客席も約1500万円かけて改装。座席の幅が4センチ広がり、ゆったり落語を楽しめるようにした。音響の設備も新しくなり、次の10年に向けて再スタートを切る。