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 いま4月12日(旧暦)、越中(今の富山県)の役人たちは、都から珍客を迎えてフジの花が美しい布勢(今の氷見市)へ行こうと、一行を誘いました。
 そこで役人のひとりが、この歌をよみます。
 何と、フジの花が咲きあふれる下を、一夜の仮寝の場所にしましよう。と、そして、何も事情をしらない土地の人は、岸辺で魚を捕る漁師と間違えるでしょう、と。
 むしろ間違いを期待している口ふ  目立たず風景にとけ込む上等さ
 にですね。 
 なぜなら、仰々しい見物客など本当に美しい物を愛する上等の人間には見えません。お金にまかせて遊び回っている人みたいです。
 じつは、このように目立たない姿をして風景にとけ込むくとの上等さを、日本人は後のち歌舞伎などで大切にしました。
 「やつし」(みすぼしい姿をすること)といって。
 その最初がここにも見られます。
(富山・高志の国文学館長中西進)
  茶道三千家の一つ、武者小路千家の15代家元後
嗣。先ごろ、夜空の星をちりばめたような地肌を持つ碗「曜変天目」を生んだ。中国を旅した。雑誌の取材つたが、「福建省の建窯跡などへ行きました。上海から鉄道と車で6時間近くかかる。そんな遠いところから、焼き物が無傷で日本まで運ばれたというのはすごいことです」。
 曜変天目茶碗は12~13世紀、中国の南栄時代に日本に伝わったとされる。そのうちの一つが、奈良国立博物館で開催中の「国宝の殿堂 藤田美術館」で6月9日まで公開中。
 中国には本来、「天目」という茶碗はない。「日本から留学したお坊さんが、天目山(浙江省)のお寺で使っていたものを持ち帰って名づけた。東京で備前焼を手に入れた外国人が母国に帰り、『トーキョー』と名づけたような感じだしようか。
 中国でし産地名から「建盞」(建窯の小ぶりな椀)と呼ばれてきたが、今では「曜変天目」の呼称が日本から逆輸入されているそうだ。
        (編集委員・小滝ちひろ)
 
 江戸時代の著名な浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)が、富士山の噴火を描いていることはあまり知られていないだろう。
 「富嶽百景」という作品集に収められた「宝永山出現」と題された浮世絵のことだ。降り注ぐ岩、崩れ落ちた家屋、下敷きになった   
 馬、人までもが宙を舞い、なすすべもなく逃げ惑う人たち―。宝永4(1707)年に富士山が噴火(宝永噴火)した様子を描いたものされる
 北斎とえば、静かで穏やかな富士山を描くイメージが強い。この絵からは、それとはかけ離れた。緊迫感や恐ろしさが伝わってくる。噴火は断続的に続き、富士山の稜線の火口に新たな「宝永山」が出現し、そう名付けられたとみられる。
 「当時、災害の絵画は売り物になりにくかった。出版されて絵画としてはほかに例がないのではないか」。浮世絵に詳しい大和分華館(奈良市)の浅野秀剛館長(68)はこう話す、また、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の大久保純一教授(59)によれば、この絵は噴火から100年以上後に描かれ、災害史の視点から顧みられることは少なかった。「この絵に富士山は描かれていないが、倒壊した家屋の木材や人間が宙を舞うというエネルギーの強さを感じざる図像に、北斎らしさが見いだされる」
 神奈川県立歴史博物館の古宮雅明学芸員(64)は、宝永噴火をリアルタイムで描いた絵画は15点しか確認されていないと指摘、いずれも絵としては簡
 素で、専門の絵師が描いたものでなかったようだ
 浮世絵などの絵画としては、富士山は多くの絵師が題材としてきた。だが、幕府は社会の秩序を維持するため、不特定多数に向けて災害についての情報を流布することを禁じていた。
 「富嶽百景」は富士山の歴史や風俗、信仰などを百科事典のようにまとめた3巻の本。北斎はなぜ噴火の絵画をこの作品集おさめたのか。
 浅野さんは、一枚絵を集めた「富嶽二十六景」と、ほんとして刊行された「富嶽百景」という媒体の違いに注目する。版元の意向が強く反映された「富嶽三十六景」に比べ、本となつた「富嶽百景」は作品により北斎の思いが反映されやすかった可能性がある。「凝り性の北斎は富士山のあらゆる面描きたかったのでしょう」
 ただ、この絵を描く際に北斎が何を参考にしたのかについては不明だ。これまでの研究では、北斎は絵を描く前に先行文献や絵画を丹念に長谷部ていたことが知られている。浅野さんは、「噴火についても調べたはずだが、イメージしづらかつたのはもしれない。そこで逃げ惑う人々を描いたのでは」と説明する   (田中章博、渡義人)
 
 2019.418(金)   朝日新聞夕刊