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 武蔵の国から集められた兵士の歌には、妻との門答がみられます。
 中国の古い本『詩経』にも、戦場に出かける兵士が夫婦で門答する歌がありますから、広く古代にはこのような習慣があったらしい。
 なぜでしよう。
 古代の人は、歌がお互いの魂をつなぎとめると考えました。別れにはその歌の力が必要だったからです。
 そのうえ、彼らは愛する者どうし紐を結んで、愛を誓いあいました。日本語の「結ぶ」とは「生す(新し  愛を結んだ紐 二人の魂つなぐ
 い命を誕生させる)ぶ」ことです。
 そこで、夫の衣に縫い着けて結んだ紐が、丸寝のままに擦り切れてしまつては大変です。
 いくら頑丈に紐を作っても、心配でたまりません。
 私の手を持っては行けない。せめてこの針だけでも―。
 そう思いながら、じっと針を見つめる妻。
 旅先で紐を繕いながら、遠く妻の手を思い出す夫。
(富山・高志の国文学館長中西進)
  茶道三千家の一つ、武者小路千家の15代家元後
嗣。先ごろ、夜空の星をちりばめたような地肌を持つ碗「曜変天目」を生んだ。中国を旅した。雑誌の取材つたが、「福建省の建窯跡などへ行きました。上海から鉄道と車で6時間近くかかる。そんな遠いところから、焼き物が無傷で日本まで運ばれたというのはすごいことです」。
 曜変天目茶碗は12~13世紀、中国の南栄時代に日本に伝わったとされる。そのうちの一つが、奈良国立博物館で開催中の「国宝の殿堂 藤田美術館」で6月9日まで公開中。
 中国には本来、「天目」という茶碗はない。「日本から留学したお坊さんが、天目山(浙江省)のお寺で使っていたものを持ち帰って名づけた。東京で備前焼を手に入れた外国人が母国に帰り、『トーキョー』と名づけたような感じだしようか。
 中国でし産地名から「建盞」(建窯の小ぶりな椀)と呼ばれてきたが、今では「曜変天目」の呼称が日本から逆輸入されているそうだ。
        (編集委員・小滝ちひろ)
 
   「明治廿二年八月十九日洪水氾濫及千此所即位石以為後之警戒」(明治22年8月19日の洪水の氾濫がここまで来たので、意思を立てて後世の警戒とする)
 奈良県南部の十津川村、村役場にある村歴史民俗資料館に、水害への警戒を呼びかける石碑(高さ約1.3メートル)が展示されている。
 明治の十津川大水害では村内で168人が亡くなり、村民の2割が北海道へ移住した
 残った人々が川の増水地点に約60基、この石碑を建てたとされる。でも資料が残っておらず、いつ、誰が何基作ったかははっきりしないんです」。吉見真理子館長代理(60)が言った。今では、ほとんどの石碑が開発や道路建設などで場所を移され、失われたとされる。
 なぜ、資料館に警戒碑が保
管されたのか。
 村政報告書には、資料館が開館した1981年、展示資料として折立地区の警戒碑を借りてレプリカを作った後、折立橋の下へ戻したとある。
 だが、記者が折立地区で話を聞いても、警戒碑の立っていた場所がわかる人は見つからなかった」と話してくれた玉置藤夫さん(85)に案内してもらい、近くまで行こうとしたか、背丈を超える深いやぶに行く手を阻まれた。玉置さんは言った。「人間はなんぼ生きても100年です。石碑はそれ以上もつ。形が残っていれば、必ず何かを伝えるための参考になるのですが」
 村の歴史を調べて来た元小学校校長、松實繁さん(78)に
 よると、現存する警戒碑は村内に五っ、隣りの五条市大塔町に二つ。当時の吉野郡庁が、警戒碑を設置した可能性が高いとみる。
 末實さんが暮らす上野地地区にも警戒碑が残るが、これも25年ほど前に道路の下に埋まっているところを偶然に見つけ、地区の中心に再び立てたものだ。松實さんは「過去の教訓が伝わっていなかった。生かすも殺すも人間次第。学校教育や社会教育の充実が必要です」
 11年の紀伊半島大水害で、根らの死者・行方不明は13人。村は14年、新たな警戒碑(高さ約1メートル)を村内10カ所に立てた。明治の警戒碑は同じ文字しか刻まれず、忘れ去られた反省を生かし、今回はそれぞれの地区で文言を変えた。村総務課の松井良造指導主事(47)は、「住民はもちろん。より多くの人に向けて水害の事業を伝えることが、減災にもつながるはずです」と語った。     (渡義人)
 (令和)2019.718 (金)   朝日新聞夕刊