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 常陸の国(いまの茨木県)の農民らしい作者は、すでに軍隊経験も持って者のようです。
 この軍隊とは、北方の蝦夷と戦う豪族の軍隊でしょう。それなりに彼には武の神、鹿島の神にも武運を祈り、いま天皇の軍隊に下士官として参加しました。
 貴重な筋金入りの兵士です。
 一方、天皇の下の軍隊とはそもそも大伴氏は配下の兵士たちでしたそれを久米部というのも、高麗・韓国のひとたちだつたからです。  戦地へ 兵士の胸をよぎる思い
  いま、彼らに農民兵を加えて急造の国軍、大規模な皇御軍が編成されたのでした。
 皇御軍の合いことばは「顧みせじ」。仏教の「不惜身命」から考え出された旗印でしたから、この合い言葉の下に参加した防人も一人いました(巻20四三七三番)。
 ただ、たのに「来たのに」とは?
 彼とても心配なのです。留守は大丈夫か?オレは生きて帰れるか?
 複雑な気持ちは隠せません。
(富山・高志の国文学館長中西進)
  「牡丹灯籠」ゆ「東海道四谷怪談」といった江戸期以降の怪談と、千年の都・京都のつながりをたどり、ゆかりの場所を訪ねて歩く。今夏にだした新刊「京都怪談巡礼」(淡交社)は、京都にまつわる怪談文芸フィールドワークの集大成だ。
 カランコロンという駒下駄の音で有名な牡丹灯籠は、明治時代の落語家・三遊亭圓朝が創作した怪談噺。だが、元をたどれば中国の小説で、それを日本で初めて紹介したのが京都にある東寺の塔頭・宝菩提院だつた。たんなる日本語訳から、やがて舞台を京都に
移した翻案も登場。「江戸初期の出版社は京都が中心。京都ネタが多いのも道理なんです」
 また、その逆もある。四谷怪談といえば
江戸歌舞伎の代表格だが、なぜか京都・六道珍皇寺の境内に「お岩大明神」が祀られている。「和尚さんに取材して、初めてわかつたんです。現場にこだわる。「書物誰では雰囲気やにおいはわからない。そこに行かないと本質はつかめないと思います」  (山崎聰)
福島と興福寺平安期からの縁   
  復興祈念 会津若松で仏像や経典の特別展 
 福島の復興を祈念した特別展「興福寺と会津 徳一がつないだ西と東」(同展実行委員会主催、朝日新聞富木島総局など後援)が
、福祉の件会津若松市の博物館で開催中だ。約1200年前の平安時代初めごろに奈良の興福寺から東北に移り住んだ高僧の徳一(749~?)を軸に、両者の縁を東日本大震災から復興に生かせればと企画された。18日まで。
 興福寺16、会津側18の計34点(一部入れ替え、期間限定あり)が展示される。興福寺からは東金堂の国宝四天王立像2体(多聞天、広目天=9世紀)や南円堂の国宝法相坐像2体(常騰、善球=1189年)など、会津からは勝常寺(同県湯川村)の国重文化財の四天王立像2体(像長天、持国天=9世紀)など双方代表的な仏像や絵画、経典がそろう。
 徳一は、伝教大師最澄と論争を繰り広げたことでま知られる。奈良から北関東・東北に移って布教むにあたつた。会津のシンボルでもある盤梯子山のふもと・盤梯町に慧日寺を開くなど、「東北の仏都」とも呼ばれる会津の基盤を築いた。
 徳一の移住は、僧侶や仏師らを伴うものだつたと考えられる。会津には奈良や京都に引けをとらない過ぎれた仏像も少なくない。今回展示される興福寺と勝常寺の四天王像を見比べてみると、丸い目を大きく見開いた表情や腰のひねりによる動感などに近似性が感じられる。
 徳一による東西の「仏様」は歴史の片隅に長らく眠っていた
 奈良から移住 高僧・徳一がきっかけ
 が、近年になって再び熟成されようとしている。そのきっかけが、盤梯町による国史跡彗日寺跡の境内・建築復元と、東日本大震災からの復興だつた。町には1970年に史跡指定された彗日寺跡を「町民の精神的・文化的な基軸」ととらえ、中門や金堂、薬師如来坐像の復元を進めてきた。推進役だつた五十嵐源市前町長は興福寺を訪ね、多川俊英貫主にアドバイスを乞うた。震災が起きると、興福寺が「福祉県内の寺社を回り、復興を祈願している。
 県立博物館の塚本麻衣子・副主任学芸員は「徳一の時代は最澄らによる新しい仏教が生まれ、大きな変化があった。その波が会津にも伝わった。戦災などで7度の大火を経験した興福寺が、復興事業の中から仏教美術のあたらしい潮流を生んだことも感じてもらい、震災からの復興を応援できれば」と話す。
 5日休館。観覧料は一般1300円、高校生800円、中学生以下無料。問い合わせは博物館(0242.28.6000)
  (編集委員・小滝ちひろ)
令和元年(2019.8.28日)   朝日新聞夕刊