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 天平18(746)の正月は、宮中のむ内外が大雪に包まれて、朝廷の人びとは大忙しでした。
 早速参上した総理大臣の橘諸兄以下、総出で雪かきをしたといいます。
 時の太上天皇(元正女帝)はその労をねぎらつて廷臣たちに酒を賜るのですが、さてそこがすばらしいところ、さらに諸臣に対して「この雪を題に和歌をよめ」と仰いました。
 その中の家持の一首が、この歌です。  庶民をうるおす恵み深い政治
 みごとな一首ですね。大雪は今年豊かな収穫に恵まれる前兆ですから、その豊かさが「内にも外にも」つまり一般の庶民にまで及ぶ、というのです。
 雪は、この純白な平等さが、尊敬されました。
 その上、このすばらしい白雪は、輝くばかりに積もっているといいます。
 子の輝きこそ、天皇の恵み深い政治の象徴と、みなが考えたのです。
(富山・高志の国文学館長中西進)
地下に眠る 酒作りの知恵
 日本有数の酒どころとして知られる灘五郷(神戸市、兵庫県西宮市)。阪神・淡路大震災では約300棟あった歴史的な酒造り関連の建造物のうち、9割が全半壊する被害を受けた。そのうちの一つ、神戸市灘区の大石蔵(沢の鶴資料館、県指定有形民俗文化財)も屋根が落ちて倒壊し、がれきと化した。
 「地下に何かあるぞ!」
 震災翌年の1996年秋、大石蔵の跡地を発掘調査していた神戸市埋蔵文化財センターの学芸員、関野豊さん(53)は驚きの声をあげた。
 大石蔵は江戸時代末期に造られて酒蔵で、78年から沢の鶴資料館として使われてきた。資料館を再建する際に免震構造を採用し、基礎を地下深くまで掘ることになり、発掘調査することになった。灘地区で酒蔵の発掘調査は初めてで、昔の酒作りについては不明な点が多かった。
 関野さんがアスファルトをはぎながら彫り進めると、石積みで囲われた地下空間が出土した。その
ながら掘り進めると、石積みで囲われた地下空間が出土した。その底には肥前焼の台大甕もあつた。「これは日本酒の生産設備に違いない」。沢の鶴の筆頭杜氏に見てもらうと。「そういえば、昔こういうのあったなあったな・・」明治時代後半~大正時代につくられた「船場」(長さ7メートル、幅2.4メートル、深さ1メートル)と呼ばれる日本酒の元になる「もろみ」をしぼって、酒と酒かすに分離するための作業場だつた・てこの原理を利用し、柱と重
石を使ってもろみを入れた袋に圧力をかけ、しぼった酒を「垂壺」と呼ばれる備前焼の甕に入れる構造だ。船場の遺構は兵庫県伊丹市などで出土例があるが、地下式は全国初の発見だつた。
 関野さんによれば、地下式は、もろみの入った袋や重石を高い所に置く必要がないため安全性や効率性が高かったとみられる。第2次世界大戦中に倉庫に転用された際に埋め戻され、忘れられていた。震災から4年後の99年、大石蔵は資料館としてよこがえった。船場跡も保存され、見学できるようになった。
 沢の鶴の西村隆治会長(75)は、資料館の再建で知られざる明治時代後半の酒造りのいったんがわかり、愛着はさらに深くなった。「資料館をつくつたのは、先人の知恵の結晶とも言える酒蔵や醸造の技術を、後世に伝えたかったからです。再建を通じて、人の営みとしての酒造りを受け継ぐことができました」
     (渡義人、田中章博)
  ◇連載「災害考古学」は、朝日新聞デジタルの特集ページ(http://asahi,com/urct)でも読むことがでます。
 
令和2年(2020.2.11日)   朝日新聞夕刊