寂聴・語る 女流作家 ふるさとの夕暮  暑い夏         
          50 暑い夏
 徳島生まれで、十八歳まで、徳島を出たことのなかった私は、暑さには強かったはずであった。
 思いがけず、満九十七歳の現在まで生きのびてしまつた私は、今年の夏の異常な暑さに、毎日、文句を言う元気さえなくなって、防虫剤を全身に浴びた虫のように、息も絶え絶えに、ひたすら、だらりと横になっている。
 何を読んでも頭に入らず、気がついたら、生きてきた過去の夏の想い出ばかりをたどつている。

    ▽   ▽

 記憶が残っている最初の夏は、爽やかな金魚売の声である。
 「金魚え―。金魚」
 と張りのある若い男の声が、歌うように近づいてくると、子供の口に、
 「あ、夏が来た」
寂庵の石仏=京都市右京区も屋山崎聰撮影  と、浮き浮きしたものだ。
 徳島の夏は格別むし暑くなる。男はみんな素肌に甚平を着て、女たちはアッパッパと称するワンピースを着ていた。子供は大方裸に近い身なりだつた。
 息も絶え絶えの夕方が過ぎ、夜になると、商店街のわが家の前の通りには、床几が出て、夕食後の男たちは、それぞれの床几で、碁や将棋を楽しみ始める。
 子どもたちは、その床几のまわりを走り廻りながら、せっかく、行水でさっぱりした体を、また汗だらけにしてしまう。女の子は、父とは別の床几に母や友だちと集まり、線香花火に熱狂する。
 夏の夜の闇に、ぱつと開く火
 九十七歳 私の罰なのか
の花の、何と華やかだったこと!テレビはまだなく、ラジオのある家に、人々は集まるような時代だったので、長い夏の夜の愉しみは、専ら人と人のふれ合いと噂話だけだつた。
 どの家も夜は蚊帳を吊った。わが家の蚊帳は緑色で大きく、毎晩、五歳年長の姉と私でわいわい云いながら吊った。その中に親子四人が寝た。
 今年は特別暑いと言われる京都の夏の暑さに、朝も夜もあえきながら、
 ―あの世には、こんな暑さはないのだろうか。
 と、ぼんやり考える。

   ▽  ▽

 放火され、何十人も殺された、この夏のニュースに、あの長い戦争を生きのびてきた私たち世代の日本人なら、戦争で殺された身内の人々のことを、誰もが思い出すことだろう。私の年代の者は、盆は旧盆がしっくりする。
   長い戦争が負けて終わったのも、旧盆の八月であつた。北京の域外の運送屋で聞いた。その日、はじめて勤めに出た日であった。夫は北京で戦地に赴き、居所も知れなかった。内地との文通はとうに絶え、広島、長崎の原爆投下のことさえ知らなかった。まして、母と祖父が、防空壕で焼死したことなど全く知らなかった。
 母は五十一歳だつた。
 私は五十一歳の時、出家した。その時、母の没年を想いだしたわけではなかつた。髪を剃っている最中、そのことにハッと気がついた。出家してからもすでに四十六年が過ぎている。そとて、まだ、私は死ねないでいる。この夏の暑さは、罰なのか。 
(令和元年)2019.8.8.日(木)    朝日新聞朝刊