寂聴・語る 女流作家 ふるさとの夕暮  暑い夏  怖れるもの  長生きの余徳  二つの誕生日  きさらぎは凶 
 コロナ過のさなか  白寿の春に  書き通した百年  不自由な夏 無我夢中の九十八  数え100歳に  数え百歳の正月   
            62 不自由な夏に-くなまんにみつかつ
 子のエッセイも、もはや六年めを迎えた。私は今や九十八歳になつたが、自分の歳も忘れがちで、今も、横に来た秘書に、「私、今、いくつ?」と訊いて
「また!何度言えば覚えるんですか?」
と、怒られてしまつた。秘書は孫より若いので、年々気が強くなっいくる。
 忘れようとつとめていつもりは一切ないが、覚えようとする気概も全くない。
 年を取るということは、実にむなしいことだとつくづく思う。
 それにまた、最近の世の中のうっとうしいこと!
 人々はみんな大きなマスクで顔の大方をかくしている。コロナという伝性病が、国中を駆けめぐり、目に見えない伝染病のおびえて、人々は生きたい所へも行けず、逢いたい人にも逢えなくなってしまつた。生きている意味もない。
 東京や、東北の岩手へ毎月、いや、毎週、空路や鉄道で走り回っていた自分の達者さは、一体、どこへ消え去ったのだろう。
 今朝のドン新聞も、昨日の九州の大雨で、多くの死者のでたことを、一面に報じている。テレビに映る町を埋める大水や屋根の飛ばされた人家を見ると、平安時代の大雨の民衆の姿を見て
いるようで、気が遠くなる。
 府と気がつくと、こんな時、すぐに電話で便りを問いあった親しい身内やなつかしい友人のほとんどが、今はいない、彼等の命は果たしてあの世とやらで、互いにめぐりあえているのであろうか。やがてそちらへ行き着く自分は、先にいったなつかしい人たちに、果たして逢うことが出来るのだろうか。
    
    ◆  ◆  ◆
 
 出家して、四十七年になるが、正直なところ、あの世のことは何ひとつ理解出来ていない。親しい人、恋しい人はほとんど先にあの世に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切ない。
 この新聞に、こうしたエッセイの連載をさせて貰って、いつの間にか六十回になっているとか。
  果てなき競争 戦争もコロナも
 「六十回の節目ですからね。それを迎えた感慨や、意気込みを書いてと、編集部から電話がありました」
 と、しっから者の秘書は、いっそうはりきっている
 連載が始まって、大方六年目になっているとか、私の九十三歳から始まったことになる。

     ◆   ◆   ◆

 この連載が始まって、私は思いがけない大病をして、手術も二度ほどしているが、いつでも、けろりと治って、また連載をつづけてきた。
 私の晩年を何よりより識っているのは、この連載のエッセイらしい。私の忘れてしまつたことも、この連載エッセイのなかには、すべて記録されている。言葉を変えれば、私の九十過ぎての遺言になっているかもしれない。
 六十回も書かせくれた新聞の編集部と、飽きもせず、読みつづけてくれた読者の方々に心からのお礼を捧げる。やがて本にもしてくれるとか。生きる楽しみのすべてを犠牲にして、ひたから書き通した私の百年ばかりの人生は、一応筋を通したことになろうか。
(令和2年)2020.8.15日)    朝日新聞