寂聴・語る 女流作家 ふるさとの夕暮  暑い夏  怖れるもの  長生きの余徳  二つの誕生日  きさらぎは凶 
 コロナ過のさなか  白寿の春に  書き通した百年  不自由な夏 無我夢中の九十八  数え100歳に  数え百歳の正月   
            67 数え百歳の正月に
 今年の正月で、私は数え百歳になつた。まさか自分が百歳まで長生きしようとは夢にも思ったことがなかった。
 五十一歳で、防空壕の中で焼死した母は特別として、その跡をを追うように、死亡した父も、たった一人の姉も、癌や結核を患い、人生の半分しか生きていない。
 私を取りあげた産婆が、この子は、育ちきらないだろうといわれたが、百歳の正月をを迎えるなんて、誰に想像出来たことか。
 幼少時代から、私は病弱の上,滲出性体質で、年中からだが、吹き出ものでかゆく、泣いてばかりいた。その上、どうせ育たないと思いこんだ母が、あわれがり、たいていのわがままを許したので、煮豆ばかりしか食べない偏食になってしまつた。
 小学校に上がって通知簿には、すべて甲ばかり並んでいたが、最後の頁の体育のところに、丙というまがまがしい字があった。
 母が先生に呼ばれて、偏食のため、栄養失調だと、いつも叱られていたようである。
 「豆ばかり食べても、こんなに成績がいいんだもの、これで充分」
 と、のんきな母は笑って、私の偏食を改めさせようとはしなかつた。
 そのまま育つていたら、私はとうの昔に、あの世に出かけていただろう。
    
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 自分の偏食を直そうと思いついたのは、二十歳で、見合いして婚約が決まった時であつた。私は相手が、中国の古代詩の研究をしている学者の卵だというので、将来も豊かな生活は出来まいと想うと、急に案じられて、何気なく新聞の広告にあつた断食寮へ入る気になつた。私は東京の女子大の寮に暮らしていたが、その広告の断食寮は、大阪の聞いたこともない山の中である。思いつめると、何をしてかすかわからない私は、女子
 おかあさん、短かったよ
の寮には、病気を治すためと告げ、大阪の断食寮に入ってしまつた。
 四十日の断食生活は、私の体質を根本から変えてくれた。出山釈迦そっくりの骨と皮ばかりになつて、女子大の寮へ帰った私は、その後、みるみる肉がつき、断食前よりも瑞々しい体になり、卒業と同時に結婚して、夫の暮らしいる北京へ渡った。
 北京で一女を生んだ時も、至って安産で、故国で心配していた母が、まさかその後、間もなくして防空壕で焼け死のうとは予想も出来なかった。母は五十一歳だつた。
 田舎の親類の蔵に預けてあった母の箪笥の中には、私の娘、母の見ぬ孫の、幼稚園の靴とか、買いだめの品がいっぱい入っていた。

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 母の死んだ歳になって、私は出離したが、髪をおろす時、母を強く想いだしていた。
 母が死んだ歳に出離しなかつたなら、私は果たして今まで生きていただろうか。中尊寺の奥の部屋で、髪をおろしながら、私は内心
 「おかあさん、これでよかつたのね」
 と、あの世の母に呼びかけていた。まさか百歳まで生きのびるなどと、考えられただろうか。
 数え百歳を迎えて振りかえる時、何とまあ、百年の短かった事よという、感慨のみに包まれてくる。
(令和3年)2022.1.14日)    朝日新聞