寂聴・語る 女流作家 ふるさとの夕暮  暑い夏  怖れるもの  長生きの余徳  二つの誕生日  きさらぎは凶 
 コロナ過のさなか 白寿の春に  書き通した百年   無我夢中の九十八  数え100歳に 数え百歳の正月     
            56  きさらぎは凶
 九十七という歳のせいだろか、二月に入って、寒さが身に染み、骨までしんしんと冷え込んでくる。
 今年は暖冬だなどつぶやいていた一月が夢のようで、二月に入ってからの冷えこみは、例年通りである。
 雪もちらついたがすく止み、かえって冷え込みがひどくなった。雪が厚く降りつもると、それに陽がさし輝いて見え、かえって暖かく感じるものだが、ほんの少しで薄いベールを置いたようなだと、身ぶるいが出て、寒さが身にしみてくる。
 古里の徳島は暖かく、冬もめったに雪は降らない。むたまに雪が舞っていると、子供たちは声をあげて家を飛び出し、口をあけて空を仰ぎ、走り廻る。開けた口の中に降ってくる雪を食べようとするのであつた。

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 大人になってからの二月は、私
にとっては凶の月であった。
 幼い娘のいる夫との家を飛びだし、オーバーも手袋もなく、着のみ着のまま、さいふもなく、無一文で電車の線路ぞいに歩いて家出したのが、二月であった。その家での原因になった若い男が、私ではない若い女と家庭を持ち、仕事に行きづまり、がんになり、借金と病に絶望して、首を吊って死んだのが二月の寒い夜だつた。
 肉親の中でつた一人残った姉が、大腸がんで死亡したのも二月の雪の降る日であった。
 九十過ぎた自分が、心臓と両足の血管が詰まって病院に運ばれたのも二月末だつた。親しい友人たちは、それ等を識っていて、二月になると、
 「凶の月が来るから、気をつけて」
 と、電話やハガキで見舞ってくれる。
 今年の二月は、これという病気
 ベッドでひたすら読書しながら
は訪れないが、無気力になり、昼間から寝てばかりで、いよいよ来る時が来たかと病院に行ったが、かかりつけのドクターは、笑いながら、
 「お年ですから・・」
 と言うだけであった。
 終日ベッドから出ようとしない私に、スタッフたちは馴れてしまい、
 「少しでも体力があるなら、書斎の机のまわりを片付けて下さい」
 という。その横から、もう一人が、
 「書斎には、もう行かないようだから、それより、ベッドの脇机と、そのまわりを何とかしてください。いくら掃除したつた、あれじゃ見栄えがしませんわ」
 と眉をとがらせて言う。小さなベッド脇の机の上は、本と、原稿用紙が山のように乱雑につみ重なっている。

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 丸い机のまわりの小さな椅子二つの上も、本や雑誌や郵便物が崩れ落ちそうに積まれている。書斎以上に、荒れた有り様で、毎日床だけ掃除してくれるスタッフたちは、ベッドの私に背をむけて、もはや話しかけもしない。それをいいことにして、私は寝ころがったまま、本を読みつづけている。耳はほとんど聞こえなくなっているが、目だけはまだよく見えるので、退屈しない。もう、半分死んだようなものだ。
 「二月だもの、食はさすがに細くなったわね」
 というと、
 「え? 誰がです?」
 スタッフたちが、黄色い声をいっせいにあげた。
(令和2年)2020.2.13日(木)    朝日新聞朝刊