辻村深月    大西伸明 現代美術  人文考  人文考2     
  中国共産党の指導者で、中華人民共和国を建国した毛沢東(1953から1976)の本当の姿はどんな影響力を持ち、それがいまの中国にどんな形で表れているのか。そんな問題意識を持って、3月までの4年間、共同研究「毛沢東に関する人文学的研究」を続けてきました。中国史や中国文学の研究者にも幅広く参加してもらい、毛沢東のイメージの形成、誕生記念日の研究、現代美術かみる毛沢東図像の「価値」など多角的な視点から研究してきました。
 毛沢東は1949年に建国を宣言して国家指導者になるまでは、一度も国外に出たことがあ
石川禎浩 (中国近現代史)  
りませんでした。外国語も話せません。そんな彼がインテリの集まっていた中国共産党の中で、どのようにしてリーダーにのし上がることができたのでしようか、土着の人だから成功したという見方もありますが、そんな簡単な説明では納得できませ

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 毛沢東についての情報は様々なバイアスがかかり、加工された情報がほとんどです。加工されていない毛沢東の姿に戻すことができれば、彼がのちにどのように利用され、脚色されてきたかが分かります。その上に成り立つ、いまの中国というものが判るのではないかと考えています。
 ただ、中国では毛沢東に関わる歴史資料そのものがか工されてい共産党といったイデオロギー型革
 毛沢東の実像へ 加工された情報たどる
 命政党によつて統制されてきた中国では、その時代の政治によって当たり前のように歴史資料も加工されるのです。
 例えば、1935年の遵義会議。毛沢東の指導権が確立する重要な転換点となった会議ですが、後年再版された歴史資料を見ると当時の資料にはなかつた「偉大な歴史的意義を有する会議」といつた内容の一文が加筆されています。あたかも当時から共産党内部で、遵義会議が高く評価されていたかのように改ざんされています。現代の研究者がその資料を引用することで、「本当のこと」になるかもしれません。こうした危機感を抱くようになつたため、今年4月からは「20世紀中国史の資料的復元」という新に共同研究班を立ち上げました。

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 また、もちろん中国には資料がたくさんあるわけですが、中国側の研究機関との交流は厳しくなっています。約束を取り付けて北京の共産党歴史部門の研究者に会いに出かけても、当日になって、「会えない」と言われたこともありました。私の著書を中国語に翻訳してもらって中国国内で出版しようしても、審査が厳重で、いつ出版できるかもわかりません。かつては考えられなったことですが、習近平体制になってから厳しくなったと感じます。共産党が耳の痛い意見(外国の研究)も聞かず
  都合の良いことばかりを流布していると、中国の研究が世界から取り残されるのではと心配です。
 人文研90年の歴史の中で、現在中国についての歴史研究は50年ほどです。人文研には中国古典の資料がたくさんあるので、古典の上に成り立っている現代中国という観点から研究するには恵まれた環境にありますが、それに加え、1950~80年代の主要な地方の新聞などの資料も集めています。資料面の充実で言えば、日本では一、二を争う施設になりました。私たちの研究は20年先、あるいは50年先には、中国の研究者だけではなく、中国の研究者も使うようになると思って取り組んでいます。
    (聞き手・向井大輔)
 駅に残る巨石 激流の証
   人の身の丈もあるたろうか。JR奈良線の玉水駅(京都府井手町)の片隅に、巨大な石がひっそりと置かれている。巨石の前には石碑があり、その文言を読んで初めて巨石が激流に流され、転がってきた水害の証師であることを知った。
 青々とした木々に覆われる玉川。その流れには、初夏に蛍が舞う。昭和28(1953)年8月15日、  
このせせらぎが牙をむいた。井手町で100人余りの犠牲者を出した南山城水害である。
 集中豪雨で近くの大正池と玉川があふれ、4千の家々を押しつぶした。ふるさとガイドボランティアの宮本敏雪さん(84)は「いまも仲間と集まれば、終戦と水害のことばかり。それほど大きなことだつた」述べ、当時18歳だ
ったころを振り返った。
 あの夜、雨は勢いを増していた。お盆で姉が2人に子を連れ、宮本さんの母が住む実家に戻っていた。「変な音がする」。深夜、母が言った。「水、来とるで!」。1階にいた宮本さんは高い所へ逃げようと考え、2階に駆け上がった。窓から外を見ると、庭の木に数人がしがみつき、「お~い、お~い」と叫んでいた。「水が立つてきた」。宮本さんはそう感じた。家族みんなで隣の家の屋根にはい上がった。一緒に死のう。そんな思いが脳裏をかすめた。
 水が引いたとき、町は一変していた。暑い盛り、すぐに遺体の顔が膨らみ、誰が誰だかわからなくなつた。土の中に埋もれた手はソーセージのようだつた。ゴロゴロと、上流から医師が転がってくる音がいまも頭から離れない、「怖くて、よう寝られん。PTSDっていうんでしようか」
   宮本さんは語り部として、地元の小学校で悲劇を伝え続けている。図書館がつくつた紙芝居も監修した。「命は自分でまもらなあかん。一人でもそう思ってくれたら」
 一昨年、駅舎の新築で、巨石が撤去されようとしていた。宮本さんはJRと町に保存要望書を出した。「目に見える水害の記憶だから」。駅の巨石の紹介から始めるそうだ。
 一緒に川のほとりを歩いた。エノキとムクノキの大木があった。ここを境に下流がやられたという。「流された水車小屋の石臼があつたのたけど・・」すっかり草に覆われ、わからない。水害は過去のものとなりつつある
 (編集委員・中村俊介)
 (令和)2019.7.24日(水)   朝日新聞夕刊