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天空の近未来   焼却場        
見せる焼却場 未来へのトンネル
 広島市中央部から南へ約4キロ。市のごみ処理場は、広島湾に突き出た埋立地のどん詰まりに立っている。
 シンプルな外観だが、吹き抜け構造のガラス張りの中央部が目を引く。2階にある長さ約140メートルの通路「エコリアム」。エコロジー(環境保護)とアトリウム(空間)を組み合わせた。
 トンネル型の通路はまさにSF。銀色に輝くゴミ処理装置が両脇に並び、宇宙基地にいるかのように。有害物質を除くガス吸収塔は高さ約30メートルあり、見上げると壮観だ。「ゴミ工場っぽんない」。観光客がカメラを構えていた。
 広島市環境局中工場が完成したのは、2004年。ニューヨーク近代美術館の増改築を担った世界的建築家、谷口吉生氏が設計した。迷惑施設とされがちなゴミ処理場の設備を隠さず、あえて「見せる」デザインにした。ガラスのトンネルの出入り口からは、海年内の街並が望める。釣り人や散歩途中の人も立ち寄る。「前例のない開かれたゴミ工場」と谷口氏は話す。

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 工場前の吉島通りを進むと、原爆ドームや平和記念資料館が立つ平和記念公園に着く、解体案もあったドームを軸に公園を設計したのは、東京五輪や大阪万博の基幹施設を手がけた故・丹下健三。被爆から1世紀の45年を見据えた事業として工場を設計したのは谷口氏は、「丹下先生が引いた広島のシンボルックな軸線」を塞がず、海までつなぐようガラスのトンネルを作った。広島では、ごみと街、平和は地続きだ。
 原爆投下、2度の東京五輪と大阪万博、その先には戦後100年がある。この世界はどんな姿になっているのか。ガラスの通路は、過去も未来も透かすタイムトンネルのよう。ゴミ焼却場の片隅で海を見ながら、小さな時間旅行をした。
      (文・土井恵里菜、写真・上田幸二)   ごみ処理場のエコリアム
  (広島市環境局中工場) 
  災害の度 復興務めた町 
 
  2018年に尼崎城天守閣が完成した。天守としては日本最新の築城である。天守再建のもとになったのは個人の寄付によると聞く尼崎には14世紀以来城があり、江戸時代には大阪防衛の徳川の拠点であった。尼崎城は海に面した砂洲上の城で、瀬戸内海と中国海道の両方を抑えた戦略的立地だつた。しかし、水に接した軟弱な地盤は、江戸時代を通じて尼崎城が繰り返し復旧工事を余儀なくされる要因になつた。尼崎市教育委員会編「尼崎城研究資料集成」にもとづいて、その歴史をたどりたい
 1662(寛文2)年に起きたマグニチュード7.5の近江・若狭地震では、天守が傾き、櫓や石垣が破損したり崩壊したりした。1670(寛文10)年には台風が直撃し石垣が崩れ、城下の町屋が浸水した。しかし尼崎の人々は復興に努め、災害を契機に町並みを改めるなどして、よりよい城下町にしていつた。

 1707(宝永4)年に起きたマグニチュード8.6の宝永地震では、本丸の櫓・多門櫓6棟と本丸御殿の広間・台所が崩壊
二の丸・三の丸では櫓5棟が倒壊、8棟が損壊した。城下では町屋191軒が倒壊した。被害は甚大だつたが、尼崎の人々はおよそ10年で城と町を復興した。
 1854(安政元)年に起きたマグネチュード8.4の安政東南海地震では、櫓11棟が倒壊てられなかった。ところが、火
あるいは損壊、多門櫓や門17 棟が倒壊あるいは損壊した。
このときも速やかな復興を進めた。このように尼崎の城と町は、歴史の中で厳しい災害に遭ったが、人々はその度に立ち上がって城下町をみごとに復興してきた。
 安政東南海地震前の1846(弘化3)年には、本丸で火災が発生し、本丸御殿を全焼した。財政危機に陥っていた尼崎藩に災当日のうちに領内の村々からは、御殿再建のめどはとてもた
お見舞いと寄付金が城に届けら れ、ついにそうした寄付金で本丸御殿が再建できたという。尼崎城も松平のお殿様も、尼崎の人々にとても愛されていたのではある、
 城というと、抑制の象徴という人がいる。しかし、決してそんな城だけではなかったのを尼崎城は物語る。寄付でに日本最新の天守ができたというのも、尼崎らしいと思う。
 (千田嘉博・城郭考古学者)
 
   昭和を代表する作庭家の重森三玲(1896~1975)が53年に設計・作庭し、2014年、国の名勝に指定されました。
 岸和田城天守閣から望むと、白砂を囲む三重の縁石が印象的。中央に「大将」を表す石が配され、それを取り巻くように八つの石組みが並びます。軍師・諸葛孔明の陣構えからイメージしたため、この名があります。
 天守は江戸時代に落雷で焼失して再建されず、城跡は長く石垣と掘のみの状態でした。戦後に堀の一部を埋め立てて児童遊園地を造る案が検討された際、市から相談を受け 空からも鑑賞 重森イズム 
た重森が城跡を保存するため作庭を提案したそうです。庭ができた翌年の54年、3層の現在の天守閣が鉄筋コンクリート造りで再建されました
 地上から360度、どこからでも鑑賞できるほか、将来は飛行機から見えるだろうと予想して設計しました。「従来の庭園史上にない次元」「私独自の創作」重森は著書で紹介しています。
 市郷士文化課の山岡邦章・文化財担当長は「市も重森に意匠を任せた。何もない城跡に自由に設計できた。重森イズムを出し切った庭だろう」と話しています。
       (川田淳史)
 
 令和元年(2019)9月21日   朝日新聞夕刊