No1   芥川賞 浅田次郎 角田光代 木内昇 李龍徳 吉村満壱
 新型コロナウイルスの流行らより、日々緊張感が続いている。運動不足で体はだるいのに、頭の中では絶えず何かが張り詰めている。睡眠も浅く、ちょっとした物音ですぐに目覚めてしまう。するとたちまち恐ろしい予感に包まれて、怖くてしようがなくなる。あるいは大切な人のことを考えた途端、涙が出て止まらなくなる。スーパーマーケットで誰かが咳をすると、その客がどんなに遠くにいても耳はちゃんとその咳を聞き分けて、咄嗟に身構えたり、場合によってはその場から逃げ出したりする。マスクをせずに大声で喋っている人を見ると、殺意すら湧いてくる。
 そんなことが、最近当たり前の反応になつてしまっている。我々の感覚は今、過度に鋭敏になっているに違いない。それはあたかも、怯えた狩猟民のようである。
 人類史において、人が他の動物に食い殺されなくなった歴史は短い。定住農耕生活の期間はここ1万年ほどに過ぎず、それ以前の何百万年はずっと狩猟採取生活であり、その間我々は禽獣との間で食うか食われるかの死闘を演じてきたはずである。そんな過酷な環境では、過激なまでに鋭敏な感覚が相手に捕食されるか否かを分けたことだろう。被害妄想こそ、生存の武器だったのだ。我々は現在、自分や大切な人を守るために、その本能的感覚を呼び覚まそうとしているかも知れない。
 その感覚の根底には、恐怖の感情がある。
 ウイルスは目に見えない。誰が感染しているかも全く分からない、すると次第に周りの人間の全てが化け物に見えてくる。それと同時に、自分もまた感染者かもしれないという疑念が湧き起こる。その恐怖に加えて、はたしてこの先、生活していけるのかという生存の恐怖がある。ある飲食店主は自らの先行きに関して「震えるほど怖い」と言っていた。それは多くの人々に共通する感覚だと思う。








 
  化け物の恐怖 本当に未知なのか
  コロナ禍に思う―――作家・吉村満壱 寄稿
 今や我々は、戦争や公害病や自然災害などと同様、歴史的な災厄に見舞われた当事者としての日々を生きている。未知の歴史的出来事に対して当事者が怖がるのは、当たり前のことだ。
 しかしこの恐怖は、我々にとって本当に未知のものなのだろうか。ずっとこの恐怖を味わってきた人々が、我々の社会の底辺にいなかっただろうか、と考えてみることには意味がある気がする。不安定な生活に震えるほど恐怖し、他者を化け物のように感じながら生きてきた人々はずつと存在してきたに違いない。そしてこの災厄で、新たに大量の人々が同じ目に遭ったということではなかろうか。
 この災厄は、普通の善良な人々が、ある人々にとっては化け物や捕食者となっていたようなこれまでのいびつな社会のありようを、我々に問い直しているかのようだ
 「自分だけは絶対にうつるもんか」と考えると周りは化け物だらけになる。「自分は絶対に他人にうつさないぞ」と考えるだけで、周りの化け物は人の顔を取り戻すものである。
 (令和2年)2020.5.18日(月)   朝日新聞夕刊