高階 秀彌 美術評  秋空の東塔  美術表1⃣         
 10月、旧暦では神無月とも言う。私が古都奈良のお寺巡りの旅にはじめて出たのは、学生時代の夏休みであったが、そのあいだ中、私の心には薄田泣菫の長編詩「ああ、大和にしあらましかば、いま神無月、」が絶えず鳴り響いていた。「うは葉散り透く神無備の森の小路を、/あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ、/斑鳩へ。」という詩句にうながされるようにして、斑鳩の里を歩きまわつたのである。
 改めて言うまでもなく、奈良はかつて七堂伽藍の立ち並ぶ仏教文化の中心地であつた。今も残る優美な仏たちの姿とともに、私が強く心惹かれたのは、さまざまの伽藍遺構である。
 そのなかで特に好きなのは何かと問われれば、まず薬師寺の東塔(三重塔)を挙げたい、金堂の手前に東西ふたつの塔を配置した薬師寺は、度重なる火災などによって多くの堂宇が失われ、ほとんどが後世の復元だが、東塔だけは当初(730年ごろ)の姿を残しているという。
 私が最初に訪れた時は、西塔もまだ再建されておらず、東塔だけが広い空を背景に静かに聳えていた(西塔はその後、1981年に完成)  秋空の東塔
うるわしの地 天とつながる
  明治末年ごろ、佐佐木信綱が広く知られた名吟のなかで「薬師寺の塔」と歌った時も、このような情景であったに違いない。

 ゆく秋の大和の國の薬師寺の
 塔の上なる一ひらの雲(『新月』)

 季節はここでも秋、それもまもなく冬に迎えようという秋の末である。そもそも高く広く、おだやかに澄みわたり、ぽっかり浮かんだ一片の雲がその広がりをいっそう強調する。
 そこには夏空の華麗も冬空の陰鬱もなく、ただ穏和静澄な空間の拡がりがある。それが1300年の歴史を堪えた薬師寺の
塔と呼応して、忘れ難い風景を描き出す。絶唱である。
 日本の寺院建築てば、五重塔、三重塔など、さまざまな多層塔が好まれた。聖武天皇の御代に全国に建てられた国分寺は七重塔を備えていたし、九重塔もあつたという。薬師寺東塔は三重塔だが、各層に裳階(軒下にでした庇の一種)がつけられているので、一見六重塔のようにも見える、法隆寺の五重塔な途に比べてひときわ小ぶりであるため、全体として優美な印象が強い。
 しかし、その優雅な外観にもかかわらず、構造体としては堅牢である。そもそも日本では自身や台風で倒壊した多層塔の例ほとんどないという。幸田露伴の『五重塔』は、まさしくそのことを主題にした名作である。腕は確かだが人付き合いの悪い大工の十兵衛が、ただ独りで五重塔建築に取り組む。明朝完成という前夜、激しい嵐が襲った
 大きく揺れる塔の頂上で、十兵衛はひと晩中見守り続ける。もし党が倒れるか崩れることがあれば、手にした鑿で喉を突いて運命をともにする覚悟である。翌朝、明るい日差しのなかで、塔は燦然と輝いていた。
 もともと塔は仏舎利(仏陀の遺骨)を収めた建造物(ストゥーパ)が発祥地のインドから中国大陸、朝鮮半島を経て日本に到来する間に次第にさまざまな部分をつけ加えて発達してきたものである。
 薬師寺の塔も、本来仏舎利を保護するための建物だが、頂上部相輪の水煙に天上から舞い降りる天女の姿が彫り出されていることに示されているように、天と地を結ぶものとも考えられた。かつて「大和しうるわし」と歌われたこの地にふさわしい名建築と言ってよいであろう。
  (美術史家・美術評論家) 
     重力の緊張感 植松杢二「驚異」の部屋       大阪で19日まで
 重力から自由になつた石の冒険は宇宙にまで及び、宇宙飛行士と月面で記念撮影も、重さと軽さが反転する超現実的な「驚異」の世界に、ワクワクさせられる。
 19日まで、13.14休み。ギャラノマル(06.6964.2323)。  
       (田中ゑれ奈) 
 15~16世紀ごろの欧州では、世界中の珍奇を収集する「驚異の部屋」が流行した。美術家・植松奎二は大阪城東区のギャラリーノマルで開催中の個展「未来を振りかえる一
仮設」を、幻術と科学が混然一体となった最古のミュージアムになぞらえる。
 新作「見えない軸―水平・垂直・傾」は、これまで植松が向き合い続けて来た「重力」を水を中心に可視化するインスタレーシヨンだ。展示室の床には、水をたたえた丸いステンレス製のプールが一つ。その底からのびる3本のワ
イヤが天井の梁を経由し、重さ約130キロの銅板3枚をそれぞれ支える。
 銅板は絶妙なバランスを保ちながら空中に静止、あるいは一辺を床に付けて直立している。壁には「上昇/停止/落下」と題された噴水の映像が投影され、頂点に達した一瞬の水と、それを映すプールの静止した水面との対比が緊張感を醸し出す。
 既成の風景写真にドローイングを加えた「浮く石」のシリーズでは、エッフェル塔やラミッド、ナスカの地上絵などざまな場所と時間を石が旅をする。
  日本の議会政治の歴史は、1890年11月の第1回帝国議会にさかのぼる。
 当時、与党として内閣を組織したのは藩閥官僚の系譜を持つ「吏党」と呼ばれた政党で自由民権運動の流れをくむ「民党」と呼ばれる政党が与野党だつた。
 帝国議会は、与野党でしのぎを削った立憲政友会と立憲民政党など政党政治が活発だった時期もあったが、あくまで「天皇の協賛機関」にとどまつた。その後も軍部の台頭を許し、1940年に各党は解党、大政翼賛会が発足し、世に戦時体制に染まった。 戦後、国会は「国権の最高機関」に。その国会で長らく野党第1党を占めた政党が社会党だ。
 戦前からの労働運動、農民運動の流れをくんで45年11月に結党した社会党は、社会主義的な政策の実現を掲げ、47年の参院選で第1党に躍進。発の社会党首班
 
内閣を誕生させた。
 同内閣は党内の左右対立などで9カ月余りで退陣した。55年の左右再統一後の社会党は「護憲・平和の党」を旗印にした。自民党と日本民主党の保守合同で「自民党」も誕生。この保革構図である「55年体制」のもと、革新勢力として戦後政治史を織りなした。
 社会党の「野党」としての特徴は、庶民、労働者の側に立って平和な国造りを目指すというスタンスのもと、日米安保闘争や護憲運動、消費税反対などを通じて政権与党に歯止めをかける役割を果たしたことだ。
 とくに自衛隊をめぐつては、非武装・中立を理想として「護憲」の立場を取った。のちに首相となる村山富市・元党委員長は「今日の自衛隊があれだけ歯止めのかかったものになっているのは、社会党が自衛隊は憲法違反だと頑張ってきたからだ」と述懐する。 
   そうした抵抗野党として存在感を発揮した社会党だが、選挙では単独で政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかった。国会では、与党と水面下で妥協と取引を繰り返し、与野党の国会対策委員会を舞台にした「国対政治」は55年体制の象徴になった。社会党には「批判勢力であることに安住している」との批判も出た。
 そんな社会党を、次代のうねりが翻弄する。
 自民党・竹下政権下で「リクルート事件」が発覚。消費税導入もあり、内閣支持率が急降下し、89年の参院選で自民党は過半数割れに追い込まれた。憲政史上初の女性党首となつた土井たか子委員長による「山が動いた」発言は今も語りくさだ。
 93年には社会党も参加した細川護熙首相の非自民連立政権が誕生し、自民の一党支配と55年体制が終わった。その細川政権も94年に総辞職。今度は自民、社会、新党さきがけの連立政権が実現し、村山氏が首相に就いた。
 これが社会党の転換点になつた。村山政権は「現実路線」にかじを切り、自衛隊合意、日米安保堅持を表明。反対を掲げて選挙でお躍進した消費税の3%から5%への引き上げも閣議決定した。
          (今野忍)
 2019.10.12(令和元年)(火)     朝日新聞夕刊