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 半世紀も労働問題を研究した立場からは、2008年の「蟹工船」ブームは大変悲しい思いでした。背景には、労働運動が後退局面に入った久しく、現状が戦前の労働環境とそれほど遠くなくなった現実がありました。
 長時間の過酷な肉体労働を強いられる職場は、今のサービス業や製造業にも少なくない。会社間の競争は船同士の競争と同じで、間接雇用の非正規雇用の多くは身分保障がなく、「ブラック企業」の要求に意義申し立てのすべがない。不況下で福祉政策の充実が叫ばれましが、肝心の労働現場で貧困や格差が際立つてきました。
 労組への逆風は、多くの労組が本来果たすべき役割を果たしていないから。1980年代以降の非正規雇用の増加
を見過ごし、正社員の既得権を守るにも、年功制が廃れて人事評価による能力主義が浸透し、個人の「受難」は自己責任にされています。不況が長引き非正規の条件改善を求めようにも若者も中高年も疲弊しています。
 少数の当事者による切実な訴えを白眼視し、同調圧力をかけるのは多数の暴力です。憲法28条が定める労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動)、つまり産業民主主義のためには、企業別から産業別・職種別の再編が必須。運転手や美容師、看護師など専門性が高い分野、特に福祉社会の最前線の担い手でもある非正規の女性公務員の組織化が急務です。
蟹工船  1929年刊 小林多喜二 ◀◀80年後に訪れた「ブーム」
  「今のフリーターと状況が似ている」「プロレタリア文学が今や等身大」「蟹工船がリアルに感じられるほど、いまの若い人の労働持条件はひどい」―。作家・活動家の雨宮処凛さん(44)は2008年1月の毎日新聞に載った作家・高橋源一郎さんとの対談でそう語った。
 『蟹工船』刊行は1922年(昭和4)年。工業化や大正デモクラシーといった変化の一方、労働者の基本的権利が認められていなかった時代に、人間扱いされない労働環境と乗員らのストライキを描いたプロレタリア文学の代表作だ。作者の小林多喜二は特等警察に拷問されて死んだ。
  雨宮さんの発言などをきっかけに関心が高まり、新潮文庫版はこの年だけで約55万部。漫画版も売れ、翌年には映画化された。戦後の民主化と労働運動を経て働く環境は改善し、労働者の人権は守られた―。刊行から約80年後のブームは、そんな「幻想」はとうに終わっているとという一人一人の叫びに見えた。
  戦後、労働三法が成立し、組合活動も定着。働く環境は確かによくなつた。一方で86年には労働者派遣法が施行、フリーターが「新しい働き方」として注目された。
 だが90年代にバブル経済が崩壊し、グローバル化と就職氷河期の中で労働市場の規制緩和が進むと、パートやアルバ
   



酷使される労働者 重なる現代
イトなどの非正規雇用が増加。主に正社員を守って来た労働運動の擁護も十分に受け入れられないその割合は、90年の20.2%から2008年には34.1%へと膨らんだ。
 雨宮さんは仕事や生活が不安定な非正規労働者が指す「プレカリアート」という言葉を06年に知った。「引きこもりやうつ、その背景にある就職難や過労死・過労自殺の現場を取材するうちに、労働環境が原因だと気づいた」。
 『蟹工船』を読んだのは08年の記事の対談前日。「多喜二が描いた生きるか死ぬかの切実な問題が、いまの日本にも広がっている」と思った。
 この年にはリーマン・ショックの影響で大量の雇い止め(派遣切り)が起き、年末には「年越し派遣村」ができた。翌年、労組の支持を受ける民主党に政権交代。「派遣村」村長の湯浅誠さんが内閣府参与に就き、労働問題の改善が期待された矢先の11年、東日本大震災が起きた。翌年には自公政権が復活する。
 「11年以降は反原発、反安保法案などのデモに関心が移った。団体交渉、素とといった労働運動への期待感が薄れている」。フリーライターの立場から就職氷河世代の窮乏を訴えてきたフリーライターの赤木智弘さん(44)は言う。
 氷河期世代は「人生再設計第一世代」「非正規雇用」という言葉は使わない。そうした政治家や経営者を「やさしいお父さん」のように敬い、従っていれば仕事や社会的商人が得られると期待する人々がいて、「父」にあがらうデモやストに冷ややかな視線を注いでいると感じる。「まずは当事者が狭い範囲で自分の問題に取り組むしかない」と語る赤木さんは、自らに言い聞かせるようだ。
 批評家の杉田俊介さん(44)は、氷河期世代の当事者として声をあげてきた。だが働く人は正社員、パート、アルバイト、外国人などとより細かく分断され、社会を動かすにはほど遠い。「仕事がある人にも被害者意識や不安が広がっている。若者の間には、今後もっと悪化するだろうとう諦めがある」

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 蟹工船のストライキに加わった登場人物は「先の成算なんて、どうでもいいんだ」「死ぬか、生きるか、だからな」と語りあう、ストライキの失敗にもめげずに「もう一度!」と立ち上がる。
 捨て鉢気味ながらも諦めはしない彼らの姿に、杉田さんは自らを重ねているように見える。「『蟹工船』では学生が船に乗り込み、乗員にストという手段と団結の理念を伝える。一人一人の生存を無条件に肯定する新たな理念を誰かが紡く必要がある」(大内悟史)
 
 都道府県ごとの最低賃金が10月に上がる。働き手の数も考慮した全国の加重平均は27円上がり。874円から901円になる。その推移を振り返ると、節目は2007年度と18年度だつた。
 最低賃金は、企業が労働者に最低限支払わなければならない賃金のこと。略して最賃と呼ばれる。厚生労働省の審議会が毎年夏、物価や所得水準なとをもとに目安を示す。これを参考に都道府県ごとの引き上げ額が決まる。
 最も高い東京は今回、985円から1013円に、2位の神奈川県は983円から1011円になる。1千円台の地域が現れるのは初めて。最も低い地域は790円。北東北や、福岡を除く九州なとの15県が並ぶ。当初は1日あたりの金額表示が主流だつたが、バブル崩壊後に非正規社員の働き手が増え、1 
 
日に短時間で働くケースが多くなったため、時給表示に一本化された。2002年度のことだ。全国平均は663円だつた。
 引き上げ幅は、16年度までは毎年5円以下にとどまつた。最賃の影響を受けやすい中小零細企業の支払い能力が重視された。最賃で働く人の収入が生活保護の水準よりも実質的に低くなる「逆転現象」が、あちこちで見られた。
 状況をかえたのか゜、07年度に成立した改正法だ。「逆転現象」の解消をめざすことが盛り込まれた。改正法案が議論中だつた07年度の最賃の審議会にも影響し、全国平均の引き上げ幅は10円以上に跳ね上がった。その状況は、東日本大震災の影響をうけた11年度を例外に続く。
 改正法が施行された08年度当時、東京や大阪など12都道府県で見られた「逆転現象」は
   14年度には全国で解消された。全国平均は780円の節目は15年度だ。
 個人消費を増やしたい安倍政権が、最賃を年3%程度引き上げて「全国平均1千円」をめざす、と表明。審議会は、これに後押しされた。翌16年度からは、全国平均で25円以上の引き上げが続く、
 今夏に固まった19年度のの上昇幅は27円で、現在の制度の下では過去最高。政府はこれに先立つてまとめた「骨太の方針」に、全国平均1千円の達成を「より早期に」と記した。
 ただ、働き手にとっては時給1千円で1日8時間、月20日働いても年収は200万円に届かない。働き続けても生活が苦しいワーキングプアの課題は残る。
 一方の企業側にとって、最賃の引き上げは人手不足の解消に効果があるとされるが、急速な引き上げに中小企業がついていけず、逆に雇用が失われる、という指摘もある。
 日本総研の山田久・主席研究員は完全失業率が改善傾向にあることを踏まえ「引き上げによる悪影響はまだ目立つていない」。そのうえで、「最賃に近い水準で働く人の割合は年々増えている。詳細な分析を続ける必要がある」と話す。
         (滝沢卓)
 (令和元年)2019.9.27日    朝日新聞記載夕刊