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 2009年、JR西萩駅(東京都杉並区)近くで3代続く老舗銭湯が暖簾を下した。
 1952年創業の「玉の湯」。東京都内の銭湯で古くからある、神社仏閣のような宮造り様式の建物だつた。今、その跡地には5階建ての賃貸マンションが立つ。
 廃業を決めた萩中芳晴さん(56)に噺を聞いた。

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 萩中さんの祖父は富山県から上京して、都内の銭湯で修業。その後独立し、玉の湯を開業した。後を継いだ父から萩中さんが引き継いだのは08年。35歳のときだつた。2003年に
母と父が相次いで亡くなり、萩中さんを中心に姉夫婦と3人で経営していた。
 「常連さんもいて、収支は合っていた」。萩中さんはそう話す。ただ、一緒に切り盛りしていた姉が体調を崩した。営業時間は午後4時から翌午前0時半まで、片付け菜としていると、眠りつくのは夜明けごろ。「思い出したくもないくらいしんどかった」
 建物の老化も課題だつた。宮造りの建物は創業以来、一度も建て替えていなかった。地元の区役所からは耐震補強をするように勧められていた。
 常連からは廃業を惜しむ声も寄せられていたという。「自分の代でなくす申し訳なさはあったけれど、もし続けていたら東日本大震災のときにどうなつていたか」。萩中さんの自宅では、銭湯で使われていた「男湯」「女湯」の看板が、リビングと寝室を隔てる引き戸に生まれ変わっていた。

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 ★令和元年(2019.30) 朝日新聞夕刊   銭湯は、厚生労働省が所管する公衆浴場法に規定された施設。その役割は1981年制定の「公衆浴場保健特別措置法」の第1条に記されている。「公衆浴場が住民の日常生活において書くことのできない施設であるとともに、住民の健康の増進等に関して重要な役割を担っている」。その役割を果たすために、戦後変わらず物価統制令に基づき都道府県知事が入浴料金を指定する。東京なら470円、大阪なら450円。スーパー銭湯や健康ランドは該当しない。
 81年生まれの私にとっても、銭湯は欠かせない存在だつた。生まれ育った大阪の下町の実家には風呂がなく、知らない人に交じって湯船につかるのは当たり前だった。小学3年で内風呂がある新居に引っ越し、当然のように足は遠のいた。
 2204年。全国公衆浴場生活衛生同業組合連合会の組合員の数、全国にある銭湯数だ。68年がもっとも多く1万7000.今や8分の1に減少した。
 内風呂率はもはや95%超。総務省は統計を取ること自体をやめた。厚生省が2013年、銭湯の経営者を対象に実施した調査では、経営上の問題点として「客数の減少」が77.4%ともっとも多く、「施設・設備の老巧化」も57.1%と過半数に。多くの課題を抱え、存在意義は揺らぐ。
 「そんな時代でも銭湯の役割ってあるんです」そう語るのは、熊本県公衆浴場業生活衛生同業組合理事長の野村雄亮さん(39)だ。話を聞こうと、熊本に向かった。
         (有近隆史)
 いつもと変わらない夜だった。
 熊本市中央区で、「大福湯」を営む野村雄亮さん(39)は2階のフロアにいた。閉店まで、1時間半ほと、客足も落ち着いていた。
 2016年4月14日午後9時28分。激しい縦揺れ。最大震度7の大地震が熊本県を襲った。
 15人ほどの利用者にけがはないか、急いで確認した。けが人はなし。機械室も異常はなかつた。営業はつづけられる状態だった。
 テレビでニュースを見ると、停電や断水が各地で相次いでいた。
 「無料開放する必要があるか 
もしれない」。当時は災害時の対応マニュアルのようなものはなかったが、同県公衆浴場生活衛生同業組合の理事長でもある野村さんは、その自時点でそう考えた。

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 全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会(全浴連)理事長の金銅和幸さん(68)らも東京から支援にあたった。翌15日、厚生労働省に「入浴支援活動は、国の災害救助費の対象で、入浴料補助が該当する」ことを確認した。県内の13ある銭湯からも「営業できる」と回答。無料入浴支援を開始した。
ただ、16日午前1時25分に2度目となる最大震度7の地震。被害は拡大し、天井が崩れ落ちるなどして営業できない銭湯が出た。それでも6件の戦闘で入浴支援を再開。大福湯も配管がずれたが応急処置で翌17日から再び始めた。
 ※令和元年(2019.10.23日) 朝日新聞夕刊   通常の営業は午後1時から。ただ、未明から多くの被災者が並び始め、「車で遠方から来た人もいて、銭湯停滞が起きていた」5時間早い午前8時に店を開いた。入浴するのが14日の地震以降初めてという被災者もいた。列は夜になっても途切れず、閉店を1時間ずらし午前0時までに1282人が入浴。通常の6倍以上だった
 野村さん自身も被災者だつた。銭湯と同じ建物にある自宅のタンスやピアノは倒れ、足の踏み場もない状態だった。妻からは16日の自身の後「自分たちも被災者、営業はやめて」と懇願された。。自宅を片付けられたのは客足の落ちた8月に入ってからだつた。

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 野村さんは、90年以上続く大福湯の4代目。魚市場で仲買人をしていた22さいのとき、父・数男さんが53歳で亡くなり跡を継いだ。
 1975年ごろ熊本市内だけでも300軒ほどあった銭湯も、今や県内で11軒。スーパー銭湯などの台頭もあり、家業として細々とやっている銭湯は廃業を余儀なくされている。
 ただ、「リラックスを提供するだけか銭湯の役割ではない」と野村さんは被災者支援を通じて痛感した。住民の「公衆衛生」を守るということ。熊本地震では感染症の大きな広がりは確認されなかった。「銭湯が存在する意義が少しでも伝わったならうれしい」
 熊本地震の経験を受けて、近藤さんらは災害時のマニュアルの策定に着手。五千十八年の大阪北部地震、北海道の坦振東部地震でもその経験は生かされた。「地震で長い間お世話になってきた。いざというときに恩返しできる存在でありたい」
         (有近隆史)
  東京の銭湯には他の銭湯ではあまり見られない特徴があるんです」。教えてくれたのは、庶民文化研究家の町田忍さん(69)だ。
 1980年以降、全国3800軒もの先頭に入った。「銭湯通」。町田さんが全国の銭湯を訪ね歩く中で気が付いてのは、「宮造り」と呼ばれる様式の建物が都内に集中していることだつた。。町田さんによると、1923年の関東大震災までは質素な造りだつたが、震災後、豪華な宮造り銭湯が増えたという
 そして、その銭湯の浴室の壁に大きく描かれているのが、富士山などの「ペンキ絵」だ。
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 中島盛夫さん(74)。19歳でこの道に入った中島さんは今も現役の銭湯絵師だ。9月末、東京都練馬区の「北町浴場」で描く様子を見せてもらった。
 午前8時半、銭湯内には、シンナーのにおいが漂う。浴槽の中には足場が組まれている。壁面の富士山を見つめていた。
 使うペンキは白、赤、青、黄色の4色のみ、「4色あれば、どんな絵でも作られし、経済的」。4メートルほどのはしごに乗り、はけや筆、ローラーを使い、描いておいたペンキ絵に上塗りしていく。
 その日、中宿さんが4時間ほどかけて描いたのは河口湖の水面に映る「逆さ富士」。桜も添えた。富士山自体は前に描いたものをほとんどそのままいかしているが、趣が異なる富士山が現れた。「30代のとき、休みの日は必ず富士山を見に行った。360度、どこからの富士山でも描けるよ」
 ペンキ絵の発祥も町田さんが 
令和元年・2019.10.24日(木)朝日新聞夕刊 詳しい。12年、東京・神田にあった「キカイ湯」の店主が浴室の壁面に富士山のペンキ絵を掲げたのが評判となって広まった。ペンキ絵の下には地元の商店などの広告があり、銭湯に広告を出させてもらう代わりに無料でペンキ絵を描くというシステムができたという。

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 丸山清人さん(84)は現役の湯絵師。中島さんの兄弟で、若かりし頃はコンビで都内の銭湯を回っていた。
 丸山さんにあったのは銭湯絵ではなく、東京と国立市のギャラリービブリオ」。ここで年1回、個展を開いていた。
 個展では銭湯では見られない夕焼けに染まった富士山などのペンキ絵が展示されていた。夕焼けは「赤字を連想させる」として、本来NG。「戦闘では描けないペンキ絵を描けるから楽しい」
 丸山さんが個展を開くのは今回で5回目。「ペンキ絵をみにくる人なんているのだろうか」。初めは半信半疑だつたが、毎回多くのファンが駆け付ける
 銭湯絵師を職業にしているのは2人を含め全国で3人と言われている。弟子入りを求める人が2人のもとを訪ねてくるが、中島さんは「飯を食っていけないからやめた方が良い」と断るという。
 都内の銭湯でもペンキ絵は徐々に減れつつある。でも最近では介護施設やイベントで描く機会が増えている。ペンキ絵は銭湯を飛び出し、一つの芸術作品となつている。
       (有近隆史)
  厚生労働省が2013年に行った調査によれば、銭湯経営者の43.7%が70歳以上だ。しかし現場を見ると、若い人たちが先頭に新しい風を吹き込んでいる。
 JR高円駅(東京都杉並区)近くの「小杉湯」。創業は1933年、内部はニューアルしているものの、宮造りの老舗銭湯だ。
 平松祐介さん(39)は3代目。「子どもの時からお客さんに『3代目』と言われて、洗脳されたようなものです」。一般企業にもしたが、16年の「銭湯の日」(10月10日)から働き始めた。

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 平松さんの頭の中にあるのは、3代続いた小杉湯をいかに次へつないでいくか、ということ。経営者になってから、さまざまなイベントや、ダンスイベント。新たな銭湯文化を生み出さないと次にはつなげないという危機感がある。
 平松さんを支えているのが、広告会社でプロデューサーなどをしていた菅原理之さん(38)だ。小杉湯のイベントを手伝ったことがきっかけで平松さんと意気投合し、今年9月に「転職」して。肩書は「チーフ・ストーリーテラー(CSO)。ナイキなど、ブランドとしてのストーリーを大事にしている企業にはある役職だ。
 菅原さんは意識するのは、「家業」「事業」にすること、家族経営が多い銭湯業界、経理を始め、通常の会社にはある事業計画もない銭湯が多い。小杉湯の理念を事業計画や経理面などに落とし込んでいくのが大きな役割だ。
 「これから100年先まで続くようサポートしていきたい」

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 ※令和元年(2019.10.25) 朝日新聞夕刊   埼玉県川口市の「喜楽湯」も銭湯に魅了された若者が経営する。
 デザイナーの日野祥太郎さん(35)。銭湯好きが高じて15年に銭湯―TOKYO SENTO-」というウェブメディアを立ち上げ、16年には銭湯経営にも乗り出した。
 喜楽湯はどこのでもユニークだ。番頭はモヒカン頭のバンドマンやお笑い芸人ら。客の子どもも宿題をみることもある。浴室の壁面には定期的に変更される様々なデザインの幕。「東京銭湯」のサイトもパステルカラーの色合いで、銭湯の印象からほど遠い。
 日野さんは何をしようとしているのだろうか。
 まずは若者の取り込み。奇抜な取り組みもその一つだ。また、映画の試写会やフリーマーケット、ビールの試飲会などのイベントも実施。銭湯が情報を発信する場所として価値があるということをイベントや広告を手がけるクライアントに知ってもらうことで、銭湯のブランド力を高める。日野さんは「銭湯のマーケット化」と表現する。「お客様、経営者、企業に銭湯の良さを認識してもらえれば、事業として成り立つ状況を作る。PRや企画などで協力し、起爆剤を入れたい」
 銭湯は「公共衛星」という役割を維持しつつ、新たな意義を見いだそうとしている。これからも銭湯は、気っと残る。 =おわり
        (有近隆史)
 令和(2019.10.27日)      阿蘇日新聞夕刊