No1 洗礼者聖ヨハネ 近藤勇と鞍馬天狗 土田麦僊 「魚籃観音像」 「鬼の行水」  
やんちゃな姿 なぜ自然
 モチーフへの体当たりにおいて、電光石火、直観的にシャッターを切る―。
 戦後写真界の巨頭・土門拳は、こんな風に記したことがある。東京・江東の路上で撮られた1枚は、この言葉の証左といってよいほどの躍動感がある。
 棒切れを持ってチャンバラごっこに興じる子どもたちの配置の妙、跳び上がる左の男の子と、重心をぐいっと右足に乗せる右の男の子の姿勢。彼らの影が路面に描くもう一つの絵も絶妙だ。それを彼らと同じ低い視線でとらえている。頼んで演じてもらっても、こうはいくまいと思える瞬間。まさに電光石火の早業だ。
 1950年代、土門は、リアリズム写真の本道として、「絶対非演出の絶対スナップ」やカメラとモチーフの直結」を唱えた。では下町に出かけ、機械のように客観的にこの写真を撮ったかといえば、そうではない。土門自身によると、よそ者が行っても気づかれて写真にならないので、子どもの群れに入り、カメラを見せて、ファインダーをのぞかせて、仲良しになった上で、存在が無視されるようにしてから撮った、という。
 この写真に演出はないのだろうが、撮影者が自身を演出しているのだ。
  各地で子どもを撮った土門は、彼らを「僕たちの仲間、つまりもろもろの貧乏と不安と夢の中に生きている『神の子』と記した。それは戦前戦後を生きた日本人や自身の自画像なのだろう。
 同じく子ども写真の名手、荒木径惟は土門の写真を、子どもの本質にピンとか゜あっている。と評した。土門は子供の存在を通じて、日本人の本質をとらえていたことになる。
      (編集委員・大西若人)
令和2年(2020.4.16)    朝日新聞夕刊