豊臣大阪城の一部 琵琶湖に生き残る 
       琵琶湖に浮かぶ竹生島。がんぺきにへばりつくように宝厳寺がたつ。その一角を占めるのが国宝の唐門と重要文化財の観音堂や二つの渡り廊下である
 巨大な扉を真っ赤な牡丹の花が埋め、極彩色の鳥や動物が唐破風を飾る。黒漆に生える飾り金具はまばゆいばかり。孤島の寺にしてはあまりに絢爛豪華な桃山様式の門を見上げ、訪れる人は一様に驚く、それもそのはず、徹底的に破壊されたはずの豊臣大阪城の面影を残す唯一の遺構なのだから。
 唐門は、かつて内堀にかかっていた「極楽橋」の一部だ。橋と言っても屋根をかけて望楼を設ける豪壮な建築で、『日本史』でしられる宣教師ルイス・フロイスは「黄金で輝く高貴な橋」(『一五九六年度報道遺』)と書き残  古来、王朝の交代には新勢力による前代の否定がつきまとう。豊臣家の大阪城もまた徳川家の手で廃燼に帰した。ところが、その一部が小さな島に、かろうじて生きながらえていた。    家康が「寄進」忠誠心か見逃しか
竹生島・宝厳寺に「極楽橋」 
 す。京街道の整備にともなう表玄関として、その威容は当時の絵図からもうかがえる。秀吉の死後、京都東山の秀吉の墓所、豊国廟に移築され、さらに徳川家康が竹生島に「寄進」(『舜旧記』)したことが記録を通して知られたいた。
 滋賀県は2013年から、唐門や観音堂など4棟で屋根をふき替えと、漆や彩色の塗り直しに着手。観音堂や渡廊も極楽橋の一部だつたことが判明した。宝厳寺の峰覚雄貫主は「日光で白くなっていた漆もきれいになつた。一体で残されていのですね」と目を細める。
 そしてもなぜ、大阪城の遺構が琵琶湖の小島に残ったのか。豊臣の記憶を抹殺しなかったはずの家康は、どうし  
してここだけ見逃したのか。
 ちまたには、徳川方が秀頼に全国の寺社復興をけしかけ、竹生島でも大規模移築で豊臣の財力をそごうともくろんだなと諸説ある。(織豊期政治史)は「このころの家康は、まだ牙をむいていない。むしろ忠誠心の表われではなかったか」淀君や浅井氏ゆかりの竹生島への「寄進」に、豊臣路線を継承した家康の誠意をみるのだ。
 もはや真実は闇の中だけれどよみがえつた唐門などに、時代に翻弄された数奇な運命を感じるのはそう難しくはない。
 極楽橋をはじめ、京都新城や、秀吉の可能性がある木像と、秀吉関連の発見が続く。「信長や家康に比べて秀吉の書状や命令書は多い、支配領域が広がり、新たな施策を次々に打ち出したからでしょう。歴史の見方を変える資料はまだまだ眠っていると思う」と北川さん。
 新知見とともに歴史の闇も深まるばかり。天下人の「遺産」は現代に何を訴えているのだろうか。
    (編集委員・中村俊介)