小説に追いつく不穏な社会
 物語はこんなふうに始まる。
 ある日、総務省「文化文芸倫理向上委員会」から作家、マッ夢井あてに召喚状が届く。呼び出されて行ってみると、そこは療養所とは名ばかりの「更生と矯正」のための収容所だつた。そこで「社会に適応した」作品を書くよう求められる。
 「作家が捕まったらどうなるのかという恐怖があり、最初はSFのような気持で書き始めた。ところが、だんだん現実が法的に整備されてきた」
 かねて構想を温めてきたテーマだったが、雑誌連載を始める前年の2015年には、従来の奔放解釈では成しえなかった安全保障法制が制定され、17年には「共謀罪」法が成立した。「はっと気がつくと、いつの間にか同時進行の現実を書いているみたいになってしまつ。どんどんがんじがらめになっていくような、嫌な予感がしている」
 今年、連載が終わった後、学術会議をめぐる任命拒否問題が浮上した。
 マッツ議員にたいし、理不尽な呼び出し     
「日没」桐野夏生さんに聞く
ひたひたと迫る不穏な社会の空気に、作家の桐野夏生さんが鋭く反応した。『日没』(岩波書店)で描いたディストピアは、2020年に日本と決して無縁ではない。「怒りが収まらない」という桐野さんに聞いた
に抗議し、理由を問いただす。だが、説明はなく「言葉の暴力」振るったとして「減点」を言い渡される。
 それは、任命除外の理由を問われているのに明解な説明はせず、かえって学術会議を行政改革の対象にして見直そうとする政府を想起させる。「学術会議問題に限らず、論点のすり替えが最近多い。昨日今日の問題ではないと思う」
 むしばまれる表現
 作中、作家を矯正する根拠となるのが「ヘイスピーチ法」だ。表現物と、ヘイスピーチが同列に扱われ、表現の自由がむしばまれていく。
 昨年、芸術祭「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」をめぐつて、名古屋市長からは「表現の自由はあいてをきずつけないことが絶対」といった発言が飛び出し、文化庁の補助金交付が一時、取り消された。
「芸術や文学は、刺激的だったりショッキングだつたり、あるいは心を奪われたりするものだと思う。それについて公共
主人公の作家 国が矯正・・・重なる任命拒否・不自由展  
性を保証する政治家が何か言うのはおかしい」
 じつは、東日本大震災の後から、政府に限らず、世の中の雰囲気が変わって来たと感じていた。震災を題材に書いた『バカラ』(16年)の推本をある作家に依頼したところ、「政治的なことには関わりたくない」という理由で断られた。「むしろ関わらない方が政治的ではないかと。何か話が食い違っている」
 メディアでも、似た現象が起きている。「両論併記と言いながら、自分たちは中立のふりをして、人と人をたたかわせる傾向がある。私のような物言う人間が、いわば人身御供になる」
 マッツを告発したのは、総務省にメールを送った匿名の読者とされる。ジョージ・オーウェルのSF『一九八四年』(1949年)では、監視する敵は国家だつた。「それが『自衛警察』のように、普通の人々から告発されていく。それが一番こわい」
 自粛ムードすでに
 自粛の兆しを文学の界隈で感じている。「収容所なんかなくてもいいのです。文書一つで表現は変わるかもしれない。作家や出版社は敏感だから。なんとなくみんなぴりぴりして、すでに自粛ムードに入っている」
 収容所に入ったマッツの末路は衝撃だ。結末は最後まで迷ったと言う。「最初はうまく逃げおおせて、その体験を書いている、というエピローグにしょうかと思っていた。けれど、近年の状況をみていて絶望的な気持ちになった。ちょっとそれは違えな、と」
 そんな雰囲気にあらがうかのように、精力的に発言ほ続け、小説に書く。それはなぜなのか。
 「ださいと思われるかもしれない。攻撃されるかもしれないし。けれど、いま言わないと後悔する。怒りがこみ上げて憤死しそう」
            (奥野優平)
 
 2020年11月26日  朝日新聞