郷冨佐子  国分高史  駒野剛1/13 稲垣康介   原直人    吉原桂子 高橋純子   
 1936(昭和11)年2月26日。東京朝日新聞の夕刊はなかった。翌日、朝刊の社告で、「不慮の事件のため工場の一部に支障を生じ已むなく休刊いたしました」と釈明するが、事件が何か分からない。
 だが、社告右上に大見出しが躍っている。「昨早晩一部青年将校等、各所に重臣を襲撃、内府、首相、教育総監は即死」「帝都に戒厳令布かる」。2.26事件の勃発だ。
 陸軍将兵は政府高官を襲った後、東京阿朝日新聞の活字棚をひっくり返し、東京日日、報知、時事新報などにも現れて決起趣意書を渡して回った。
 朝日に夕刊発行に支障のない活字は残っており、出そうと思えば出せた。ただ再襲撃を恐れて発行をやめたのだ。結果、事実の速報という使命を放棄したことになる。。
 27日が事件を伝える初報になったものの、朝日の腰は引けていた。この日掲載された社説は「職業紹介制度の  
 危機と新聞 報道の使命 放棄はもう許されない 
そうした中、「筆鋒鋭く軍を責め立てたのが、福沢諭吉が創刊し、「独立不羈」をモットーにした時事新報だつた。大半の東京各紙が沈黙した28日の社説で、時事は見出しこそ「偉大なる日本国民の沈着」とそらしたが、事件の発生を嘆き、重臣たちの悲劇を悼み、事案の早期回復を求めた。
 反乱兵が帰順した翌日、「帝都の治安完全回復」を掲載。最近の総選挙で表明された民意に基づい





 
改正」、次の日も「連盟政治の試金石」で、未曽有の蛮行に触れずに済ませてしまう。
 29日になって「一億臣民一致の義務」、3月1日に「帝都平穏に帰す」「岡田首相生存と事態収拾」と事件に触れたが、非道を批判したり厳罰を求めたりしていない。
 事件を起こした軍が行政、国民への監督・指揮命令権をにぎる戒厳令は7月18日に解除されるまで続いた。朝日など新聞の弱腰が、軍部の焼け太りを容認し、その後の軍国主義の横暴を招いたと言わざるを得ない。
   て軍部官僚に引きずられぬ挙国一致内閣を作って善後策を講じろと論じ、その後も一貫して陸軍内部の軍紀粛清と政治への軍の干渉制限を求め続けた。
 「粛軍即ち強兵」と題する社説は「本務として外戦に当たるべき兵力武器が、内政上の異論圧迫に向けられては、一国の治安が到底保たたるを得ない」と指弾、当時の軍にはびこる下克上の風潮を排し、統制の利いた正常な姿に戻るよう主張した。
 孤軍奮闘した時事新報だつたが経営の失敗から同年12月、いつたん廃刊となった。
 最後の社説「筆を擱くに当たりて」は悲壮だ。「横暴なる文武官僚に対する忠告者として、又民意暢達、民権伸長の主張者としたの言論的使命の如きは、近年の所謂非常時に於いて甚だ怠られつつある観にあるに鑑み」「必ず何人かが吾輩に代わって之に当たらんことを望まざるを得ない」と後事を他紙に託した。
 しかし、言論の使命を貫く新聞はなく、日本はおろかな戦争に突入していったのだ。
  コロナ過の深刻化を受けて、菅義偉首相は緊急事態宣言を再発出した。首都園で拡大する感染を沈着させるため、人の移動や飲食店の営業時間など感染を極力減らす政策の選択も、今はやむを得まい。
 しかし緊急事態宣言による制限は、人々や企業の自由な判断を阻害し、人権などの権利を損なうという深刻な副作用を伴う。
 命と自由。両者のかけかえのなさはてんぴんにかけられない。権力でどちらかを優先しようとしても縛りきれない。だから命と自由の案文は国民一人一人が担うしかない。その判断には正しい情報が不可欠だ。
 危機にこそ新聞は正しい情報を伝え続ける使命を貫かねばならない。権力に行きすぎ、間違いがあった時は、冷静に、そして率直に指摘する。とりわけ制限が不当だったり長すぎぬよう、不断の監視が欠かせない。
 あの過ちの再現は、絶対許されない。
 2021.1.12 朝日新聞夕刊より